テレビの最新映像と、個人の写真

 一昨日の夜、テレビ番組の「世界遺産」特集で屋久島が取り上げられていたので見た。

 ハイビジョンカメラで撮影した鮮明な映像、空撮も含めて資金力にものを言わせたアプローチ、テレビ局という権威ゆえに可能になる縄文杉のすぐ傍など立入禁止の場所からの撮影等、映像制作のための最高の条件を駆使して作られた番組を見ながら、あくまでも個人の力で対象に向き合う写真や、その写真をメインに掲載する雑誌の可能性とか、立ち位置を考えざるを得なかった。

 個人の写真に関して言うと、もはや、何がどのように写っているか、又は、どれだけ綺麗かというのは、益々高度化する企業主体の映像表現の前で、存在感をまったく発揮できない状況になっていると思う。個人でこれだけ出来るのかという但し書き付きの感動はあっても、映像そのものの魅力として、お金も時間もたっぷりかけた企業に叶う筈がない。個人の写真家で、テレビのハイビジョンカメラのように縄文杉の幹に刻み込まれた無数の細かな皺を映し出すことは出来ないが、あの皺をあれだけ鮮明に見せるだけでも、縄文杉に対する畏怖を感じさせることができる。

 しかし、裏を返せば、それだけの映像技術があれば、制作者側の恣意によって、人々の心を導きやすいということでもある。美しい映像と美しい音楽、さらに一方的に喋り続けるナレーションによって、人々を洗脳することも可能だ。

 私は、今年屋久島に行ったことと、「風の旅人」の第26号(6/1発行)で屋久島の特集をしたこともあって、一昨日、テレビの「世界遺産」を見たが、この番組はあまり好きではない。

 その理由は、同じような雰囲気のなかに総ての「世界遺産」をはめこんでいるからだ。 すなわち、どの「世界遺産」を見る場合でも、同じような気分に浸ることになる。それは、「世界遺産」というものに対して制作者側が一つのカテゴライズされたイメージを作りだし、その枠組みのなかに総てを納めるということだ。そういうものを見ても、私たちは対象そのものに出会うことはできず、「世界遺産」というイメージに浸り、そのイメージに陶然としながら、知識としてそれを知るだけとなる。 

 すなわち、屋久島も、パルミラも、マチピチュも、総て「世界遺産」というカテゴリーのなかで標準化されたものになる。ナレーションも同じような文脈で、実際にそこにいた人が、その人自身の体験として感じ取ったものではなく、そこに行かなくても語れてしまう内容だ。番組全体として、作り手の顔も、人生も見えやしない。その代わりに、「世界遺産」をどう取り上げなくてはいけないかという、義務感とか使命感だけは伝わってくる。

 屋久杉でも、マチュピチュでも、実際にそこに行くと、そこに行った人間の内面の状況や対象との関係性などによって見え方は異なってくる。その時の湿度や温度や風向きなどによっても当然ながら異なってくるだろう。それは、まったく個人の固有の体験なのだ。

 そういう個人の固有の体験は人それぞれだから、公正、中立という立場で映像を送り届けるのがテレビ局の役割だと彼らは主張するだろう。そして、何の恣意も無い顔を装って映像を制作する。それを見る側も、そう信じている。私的な分別は入っていないという前提で、それを見る側もそう信じ込んでいる。でも実際は、企業として様々な思惑をそこに重ねている。洗脳というのは、そのように知らず知らず行われるものであって、情報を受ける側が少しでも洗脳されているかもしれないと警戒するような状況で洗脳は行われない。

 「世界遺産」の、あの綺麗な映像のいったいどこか洗脳なのかと反論する人は、当然ながら大勢いると思う。そして、これに答えるのはとても難しい問題だ。

 敢えて答えるならば、一人一人の物事との出会い方の自由を、じわじわと奪い取っているからだ。あの番組には、「世界遺産」とラベルの貼られたものに対する向き合い方を、揃えさせる力が働いている。このようにして「世界遺産」は権威化され、「法」となり、絶大なる力を持つ。

 昨日まで行われた「世界陸上」でも同じようなところがある。たとえば、「400メートルハードル競争を見るポイント」とか、「注目は4レーンの誰それ」などと、しつこいくらいの説明がつく。そして、そのように指示される方は、無意識に、その競争を見る視点を揃えさせられる。キャスターがうるさく喋るポイント以外に、自分ならではの見方や発見があるかもしれないのに、その可能性を遮断される。そして、みんな同じような見方を共有する。注目のレーン以外の走者は、その他大勢と扱われ、誰も見ていないかもしれない。車椅子のレースが行われたけれど、その次のリレーこそがメインだと声を大きくするキャスターは、車椅子のレースなどどうでもいいという態度をとる。「日本人の選手が二位に入りました」と、健闘して二位に入った選手の名前すら無視される。

 メインと声を大きくするレースにしても、二つ三つのポイントで括れてしまうような内実ではないのに、ポイントと指摘されるもの以外に潜む凄さとか面白さが殺ぎ落とされる。

 視聴者は、このような方法で対象と付き合わされ、その癖がついてしまい、そうした習性に疑問を持たないようになり、簡単にメディア操作に乗ってしまう。最近、政治家がやたらとテレビ画面に登場するようになっているが、小泉元首相が行ったような「ポイントをシンプルにまとめる手法」に、多くの人々は簡単に丸め込まれてしまう。

 個人の身体をもって対象に向き合う写真、そして、その写真の力を引き出すための雑誌において、私は、「何が、どのように写っているか、どんなに綺麗か」というテレビの方が説得力のあるものよりも、「どういう人が、いったいなぜ、そのように対象に向かわざるを得なかったか」という部分に、こだわりを持ちたいと思う。

 極めて個人的で固有の感覚を通して、自分のなかで意識されていない潜在的な感覚を引き出すこと。そのようにして、自分の感覚のキャパシティを広げること。揺らぎの幅を広げること。そういうものを志向する感受性に引っ掛かるものを大事にしたい。

 「こういうのって、あるよねえ」と、自分のことは脇において対象を客観的に眺めるだけであったり、「世界遺産」等の特定化されたムードのなかで、様々な物事をファイリングするだけだと、自分と世界のあいだが、どんどん分断されていくような予感がする。

 そして、対象の描写力ではハイビジョンなどに敵わないからといって、私的なアプローチで、分断された自分の気分を不鮮明に日記風に示すという写真も流行っているが、そういった写真が、自分と世界のあいだの分断を修復することもない。また、その種の写真は、自分の気分を伝えるという目的のため、異なる物が同じテイストで処理されている。その物でなければならないという切実さはないという意味で、手法としてはテレビ的とも言える。

 テレビであれ、その種の私的写真であれ、写し出された物は、写した人にとって、またそれを見る人にとって、その物でなければならないという切実さはあまりなく、取り替えが可能だ。そして、取り替え可能なものは、世に溢れている。

 しかし、世の中には、その時の自分にとって、その物でなければならないという出会い方がある。その切実さの極みは、一つの邂逅であり、対象が綺麗かユニークかではなく、その出会い方そのものが美しかったり、ユニークだったりする。

 対象の綺麗さやユニークさをどれだけ再現できるかというのは、最新技術を盛り込んだ高額なカメラに任せておけばよく、そうした競争ならば、資本に勝るテレビ局に勝てるわけがないだろう。また気分に浸ることを目的とするならば、写真が音楽に勝つことは難しい。

 個人で写す写真や、それを基本にした雑誌が生き残る道は、対象の綺麗さやユニークさの再現や、対象の権威付け、または気分づくりではなく、人と世界(他者・他の物)の出会い方じたいの美しさ、ユニークさ、奥深さなどを通して、人間と世界のあいだの不可思議なつながりや、人間存在の可能性を探るところにあるのかもしれないと思う。


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