坂東真砂子さんの猫殺しについて

 タヒチに暮らす作家の坂東真砂子さんの「子猫殺し」のエッセイが批判を受け、週刊誌やネットで大きな話題になっているらしい。

http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20060824-79900.html

 「生と性と死と殺」という人間にとって非常にデリケートで困難な課題は、練りに練った文章世界でないと伝えがたく、表現の仕方によって様々な誤解が生まれてもしかたないが、それにしても、猫の「生と性と死と殺」について書かれた新聞エッセイに過剰反応する人が多いというのは、それだけ日本が平和ということで、イラクレバノンをはじめ、人間が生きていくだけで必死なところでは、そんなこと話題にもならないだろう。

 坂東さんは、動物愛護協会からも強く批判されているようだが、彼女のように猫を直接自分の手で殺さなくても、野原にこっそりと捨てたり、世話ができなくなった猫を、東京都動物愛護センターに持ち込む人は多い。

http://www.animalpolice.net/syuzai/setagaya2002/index.html

 動物愛護センターに持ち込むと、当人が手を下さなくても、殺処分してもらえる。

 愛護センターは、基本的に迷子になった犬猫を保護し、飼い主が引取に来ることを期待しているから、7日〜9〜10日間ほど施設に収容されるが、それを過ぎると薬で殺されてしまう。(離乳前の子犬、子猫、飼い主から持ち込まれた犬・猫は、即日処分対象となるのだそうだ。)

 そして、東京都の施設だけで猫の殺処分は年間12,000弱になり、毎日、約40匹弱の猫の生命が奪われていることになる。これが全国規模になると、天文学的な数になる。

 だから、今回、坂東さんが批判されている理由は、猫を殺しているという事実ではなく、「私は猫を殺しています」という堂々たる「声明」にあるのだろう。

 イラクレバノンで人を殺す人も、施設に持ち込んで猫を殺してもらう人たちも、「殺そうと思って殺したのではない」と主張する。一方、坂東さんは、殺す意思を持って殺していると書く。殺人犯の裁判でも、殺意があったか無かったかの実証がとても重要になって、殺意があると罪が重くなってしまう。だから、正常な心理で殺意があったかどうか確認するために、精神鑑定に何年も費やしたりする。正常な心理で殺人したか、異常な心理で殺人したかで、判決が変わってしまうのだ。

 つまり、現代社会においては、知らずにやってしまったことの方が、知ったうえでやったことより罪が軽いという状況が作られている。そうした傾向が強いから、みんな、知らないふりをする。深刻な状況を知らしめる媒体は嫌われ、そういうことを知らずにすむ媒体が好まれる。その方が、良心が痛まなくてすむからだ。そして、悪徳政治家の決めぜりふも、「記憶にございません」となる。

 しかし、実際には、知らずに冒す罪というのは、相手を傷つけていることに無自覚なのだから、より罪は重いのではないか。また、知らないからという理由で罪感覚に麻痺してしまい、その罪が蔓延していく可能性も大きいだろう。

 最新兵器の実験のようなアメリカやイスラエルの非情なまでの攻撃も、「相手を殺す」とは言わず、「テロの拠点を潰す」という言い方で正当化され、結果として多くの住民を殺す。

 子猫が邪魔になった人も、「施設にあずかってもらった」という言い方で、間接的に猫を殺す。

 猫や人間が死んでいるという同じ事実があるだけなのに、「私は、猫や人間を殺している」という言い方をすると猛烈な非難をされ、カムフラージュすると、あまり非難されない。だから、「私は猫を殺しています」というのは、むしろ狡さのない勇気ある行動と言えないこともない。

 しかし、殺す理由は、自分のためであるのだから、そう言えばいいことなのに、あたかも猫のためというような言い方は、やはり詭弁に聞こえる。

 「テロの拠点を潰す」という抽象的な言い方も狡いが、「世の中のために私が代表して相手を殺す」とか、「相手のために相手を殺す」という言い方ほど傲慢なものはないだろう。

 でももしかしたら、そういう弁明を通して、坂東さんは、「避妊」か「殺し」かという問題提起を行いたかったのだろうか。 

 この問題に関しての私の考えは、「避妊」だ。坂東さんが言うように「(避妊をするのも)生まれてすぐの子猫を殺すのも同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ。避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずにすむ(だけの差だ)。」とは、思えない。

 その理由は、生物の生きる目的は、「性」を奪われても充分に残されているように思うからだ。

 いったん姿形を成した生物は、その瞬間から、その個体に固有の生命を帯び、可能なかぎり生き続けようとする固有の意思を持つように思われる。それは、子猫であれ、幼児であれ、同じだ。

 お腹をすかせてピイピイと鳴く切なさは、当人が自覚しようがしまいが、生きる意思の現れだろう。その意思こそが、「生命」を説明する他のどんな言葉よりも、かけがえのないものではないかと私は思う。

 だから私は、肉体的な「生」や「性」の終焉や断絶よりも、生の意思が強制的に断ち切られることの方を、やりきれなく思う。

 親に放置された幼い子どもが、餓死で死んでしまうというニュースなどを聞くと、暗澹たる気持になる。それはおそらく、ほとんどの人間が共有する気持であり、そうした行為を猫を相手に平然と行っているように感じられてしまう内容のエッセイだったものだから、多くの人が過剰反応してしまったということもあると思う。

 とはいえ、人間の手によって何も知らない猫の避妊治療を行うのは不自然だし、傲慢だという考えもあるだろう。

 しかし、そのように猫に申し訳ないと思う気持ちを、その後の愛情ある接し方によって償うことができる。人間は何らかの形で自然を歪めているのだが、その自覚を持ちながら自然と接していくことで、自然がそれに応えて、歪みが解消されることもある。

 それは、たとえば里山など人間の手入れによって、自然がより健やかになることからも明らかだ。 

 作家の本当の仕事は、表面的な問題提起ではなく、「言葉」という曲者によって人間の感覚が歪められたり、麻痺させられたり、時にはパニックになって前後見境がなくなるということを知り尽くしたうえで、なおかつ、言葉を通して、言うに言われぬことを伝えようと奮闘することだと思う。

 今回の記事が、「生と性と死と殺」という言うに言われぬテーマを掘り下げる意図で書かれたものであるなら、あまりにも不十分な気がする。それを読む人がグサリと胸を突かれ、自分の「生と性と死と殺」を省みずにはおれないまでに高められた作品のようなものでないと、その目的は成就できないように思う。

 スローガン的な言葉が氾濫して目を曇らされて身体感覚を麻痺させられる現代社会において、スローガン的なものからできるだけ遠くに位置しながら、スローガン的な言葉の強さに太刀打ちできる言葉こそが、切実に必要な時代なのだと思う。

 今回は、一種の主義主張のように読みとれる形(連載とはいえ、その記事しか読まない人もいることは新聞社も作者も想定しておかなければならないだろう)で猫殺しが述べられてしまったから、もう一方の主義主張である動物愛護派との闘いのような形になってしまった。闘いというより、現代社会は表層的なヒューマニズム全盛の時代だから、多勢に無勢で、ほとんど一方的に攻撃されるばかりだが・・・・。 

 「動物愛護」というキャッチフレーズや、ヒューマニズムは、人間の善意を喜ばせる働きがある。今日の多くの戦争もまた、「悪の根源を絶つ」などと、人間の善意に訴えかける言葉を駆使して行われている。

 しかし、「良いこと」というのは、得意になってできることではなく、本来、とても照れくさく、きまりが悪いものではないか。それは、自分が関与することで、その場に何らかの揺らぎを与えてしまうからだろう。それがたまたま良いことになったり悪くなったりするだけのことで、状況が違えば、結果は逆になることもある。だから、良い悪い以前の問題として、状況に揺らぎを与えてしまうことが、何となく気恥ずかしい。お年寄りに席を譲ることの躊躇の多くも、自分のエゴというより、その場の空気に変化を与えてしまう決まりの悪さだろう。

 人間は他の様々なものと関係し合いながら、良い悪いもなく、ただ何となく決まりの悪い思いを引きずりながら生きていくことが、唯一、自然に近い生き方のような気がする。

 人間の存在自体が不自然で、人間は、その不自然さを自覚して、その不自然さが行きすぎることがないように生きていくしかないのではないか。 

 決まりの悪いところがあるから、人間は、自分の行っている行為の行き過ぎに敏感になれる。

 ヒューマニズムも動物愛護も、動物殺しも人間殺しも、決まりの悪さを伴わない主義主張になった瞬間から、ブレーキがかからず、行き過ぎたものになってしまうのではないだろうか。


風の旅人 (Vol.21(2006))

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