負荷がかかるから、面白い

 先週末、東中野ポレポレ東中野で行われている小栗康平監督の映画特集に行った。
 この三週間で、今まで小栗さんが制作した5作品全てを見られる。平日は行けないけれど、週末に行って、全ての映画を見たい。
 これまで見たことのある映画だけど、10年以上の歳月を経て見ると、また新鮮な感動がある。
 小栗さんの話では、田口ランディさんをはじめトークショーのある時は盛況なのだけど、他の上映回はあまり人が入っていないそうだ。
 そういう話しを聞くと、いろいろな意味で辛いなあと思う。
 そして、いったい何故なんだろうとも思う。写真集なんかでも、その瞬間だけ面白いとか可愛いとか言われて、ぱっと消費されて後には何も残らないものの方が売れる。先日、セバスチャン・サルガドの「AFRICA」という、とてつもなく大きく分厚い写真集を7500円程で買って、アフリカの混沌と美の渦巻く鮮烈な世界に圧倒されたのだけど、日本の出版社の話しでは、このように大きく分厚く迫力のある写真集は売れず、もっと手軽で小さく薄く軽い物の方がいいらしい。「第一、大きく分厚い写真集を置く書棚がある家なんて、そんなに無いですよ」と言う。
 そういう話しを聞くと、日本の豊かさっていったい何なんだろうと思わずにいられない。実際の生活における格差も深刻なんだろうけれど、消費の向かう先の格差が、どうしても気になる。
 映画や写真集の数千円は「高い」けれど、ゲームとか携帯の数千円は、「さほど高くない」という感覚だ。
 「話し方」とか「成功の仕方」といった類の処世本には、お金を惜しみなく出すが、直接実生活に関わってこない本を買うのは、もったいないと思われる。
 「実利優先」の価値観は今に始まったわけではないが、どうやら、それだけではないという気がしてならない。
 なんというか、「実利」を欲しているように見えながら、実際にそれらの処世本を読んでも実行するケースはさほどないようなので、あくまでも「参考程度」という受け止め方なのだ。消費者は、実利を真剣に求めているのではなく、「参考程度」として受け止められる気楽な距離感を好ましく感じているのではないだろうか。
 テレビのニュースなどでも、キャスターが深刻そうな顔をつくってニュースを伝えていても、あくまでも参考程度として受け流せることがわかっているから、寝ころんで気楽に見ていられるのだ。
 すなわち、後に強く残るもの、後に尾を引くもの、自分のなかで引きずってしまうようなものをできるだけ避けたいという心情が強い社会なのではないかと思ったりする。
 その瞬間ごとに、パパッと消費して後に残らない。たくさんの物を買っても、実際は、書いためることが目的なのではなく、消費が目的になっている。
 きっとその方が心が晴れるからなのだ。重い物を自分のなかに溜めこんでいくと、とてもしんどい。だから、何の気兼ねもなく、パパッと捨てられるような物の方がいい。そして、明日からまたリセットする。リセットしやすい状態に自分を置いておかなければ、この流動化の激しい社会のなかで耐えられないのかもしれない。
 できるだけ負荷を軽くする生き方を求め、筋肉は使わなければどんどん落ちていくから、ますます重たい物を持てなくなって、さらに軽いものを求め、筋肉はますます痩せ細っていく。
 心の筋肉が痩せ細ると、小栗映画を見る気もしなくなるのだろうか。
 人気があるものは面白く、人気がないのは面白くないからだと簡単に決めつける人もいるが、果たしてそうだろうか。
 自分に都合がよいことを面白いと感じる人が多ければ、都合良くやりすごせるものが人気になる。そういうことにすぎないのではないか。
 自分の都合よりも優先すべきことの向こう側に、本当に面白いことが見え隠れしているような気がするのだけど、そういう感覚は、例外なのだろうか。
 自分の都合の外を切り捨ててしまうと、目から鱗という新鮮さで「面白い!」と感じられる出会いが無くなってしまうような気がするのだけど・・・・。