自分で判断させない時代 !?

 今日、証券会社の人と会って、話をした。証券商品の組成のことが、興味深かった。
 現在、証券会社は、株の取引だけでなく、様々な金融商品をつくって投資家を集めている。建築や造船など巨額の資金が必要とする産業は、銀行からの借り入れだけに頼るのではなく、証券化することによって投資家から資金を集めるのだ。最近は、映画とか、若いスポーツ選手(テニスプレーヤーなど将来成功すると莫大なリターンが得られる可能性のあるもの)の育成などでも、そういう手法が行われている。個人で支援すると失敗した時のリスクも大きくなるが、大勢で少しずつ負担し合えば、リスクが小さくなる。
 マンションなどの場合、投資家から集めたお金で建造したりリフォームを行い、ビル全体の家賃収入から投資金額に応じて配分したものを投資家が受け取る。そうすると、投資家は、銀行に貯金した時の金利よりも大きな利回りが得られるので、資産運用に良いのではないかという判断が働く。
 そうした金融商品は、不動産とか、外国為替とか、国債とか、先物等々・・・、リスクがあるけれど利回りが大きくなる可能性もあるものと、リスクが少ないけれど利回りも小さいものをうまく組みあわせることで、投資家にとって、魅力的なものにしようとする。

 そうした証券商品の組成のなかで、私が不思議だなと思うのは、現在、巷で問題になっているサブプライムローンのような、危なっかしい商品に人が飛びつく理由だ。
 ちなみに、私が今日訪問した証券会社は、サブプライムローンによる失敗はなかった。
 サブプライムローンは、低所得者向けという言い方がよくされるが、所得に関係なく、様々な理由で返済の信用度が低い人向けの住宅ローンだ。
 銀行にとって貸し倒れになる危険性のあるローンの債権を、銀行は証券化し、それを証券会社が様々な金融商品に紛れ込ませて、世界中の人々に販売した。
 そんな危なっかしいものは普通なら誰も恐がって買わないだろう。しかし、国債とか為替商品とか、比較的リスクは少ないけれど面白みも少ないものと、危なっかしいものを混ぜることで、全体としてとても売りやすくなる。リスクを全体で吸収できて、チャレンジもできるという論法になるのだ。
 経済全体の状態が良い時は、リスク商品が失敗しても、他でその損を吸収できるし、金利としても良い結果が出る。だから、格付け会社も、この種の証券商品に高い格付けを設定する。そうすると、世界中の金融機関がどんどん買う。

 それにしてもだ。このローンは返せない可能性が高いので、金利がとても高く設定されている。ところが裏技があって、最初の2、3年の金利を低く設定して目先の楽さで人を惹きつけ、その後は金利が倍になるという、とんでもない代物なのだ。最初は低いといいながらも、6〜7%、3年後には12〜14%にもなる。今すぐに欲しい物を手に入れるため、消費者ローンで20万円借りて平気で20%(4万円)くらいの金利を払う人もいるが、3000万円の家だとすぐに返却などできず、毎年、金利が14%だと年間の金利だけで420万円も払わなければならない。つまり月額で金利だけで40万弱。この金額に元本の返却分が加わるのわけで、もともとが低所得者なのだから債務不履行になって破産するのは目に見えている。こんなめちゃくちゃなローンでも人に買わすことができたのは、当時は住宅の値段が15%ほど上昇していたからで、今買っておけば後で払えなくなっても買った時より高い値段で売れるという安易な発想があったのだろうが(日本のバブルと同じ)、毎年15%も住宅価格があがり続ければ10年後には4倍の価格になるわけで、それはありえない。どこかでバブルがはじけるのが目に見えている。にもかかわらず、馬鹿な格付け会社は、この胡散臭いローンの債権を組み込んだ金融商品に対して、”高度なファイナンス理論に裏打ちされている安全高収益の資産”ということで高い格付けをした。彼らは、証券会社から謝礼を受けていたとも言われる。証券会社は、ともかくそれらの金融商品を販売すれば手数料が得られるわけで、売るための口実さえあればよい。証券会社にとって目先の利益さえ得られれば、その後、そのローンが破綻しても、それを買った一般の投資家とか会社とか、その会社の株主とか、現在持ち上がっているように、倒産しそうな会社を国家が救済すれば納税者に負担がいくだけで、自分は関係ないのだ。

 そのように、後のことは自分は関係ないのだという理論で、サブプライムローンを煽り続けた人間たちのバカ騒ぎは、4年くらいは続いた。

 しかし、あっという間に、住宅価格が上昇するどころか下落をはじめ、バブルは弾けた。

 経済全体が負のスパイラルに陥っていくと、リスク商品の失敗は予想以上のダメージとなるし、他もその損を吸収するだけの力などまったく無くなる。というか、金融の論理で、一部で大きな不安定が生じると、本来、安定しているものも足を引っ張られて下落して、最悪の状況の上にさらに最悪が重なる。
 単独の株式であろうが、複雑な組合せであろうが、経済全体の状況に左右されることは同じなのだ。しかし、複雑であればあるほど、その広がりが大きく被害も甚大になる。なぜなら、複雑な証券商品の場合、証券の売り手や買い手に判断がつきにくくなるからだ。
 サブプライムローン単体であれば、そのメリットとデメリットは、まだしも判断できる。しかし、それが組み込まれた複雑な証券商品の場合、いったいどのように判断すればいいというのだろう。
 誠意ある証券会社は、きちんと説明責任を果たす。そのための学習も行う。
 しかし、サブプライムローンに簡単に手を出した多くの大証券会社は、そうした努力をあまり行っていなかったのではないか。
 判断できないから、証券会社の社員は、会社が決めたことに従うだけだろうし、買い手は、説明されるがままということになる。彼らにとって判断の基準があるとすれば、格付け会社が高い評価を下しているという”権威”の力を借りることだ。
 格付け会社というのは、いろいろな悪い意味で、この時代を象徴する存在だと私は思う。かつてムーディーズが、トヨタの終身雇用を嫌って、それだけの理由で格付けを下げたが、その後、トヨタは業績をどんどん伸ばしていった。終身雇用の社員にだけ目がいき、その周辺の非正規社員や関連会社に支えられた巨大で狡猾なシステムを格付け会社は理解できない。そもそも、現場をきちんと見て格付けなどしていない。当時、アメリカがリストラブームで、それに追随しないということでトヨタの評価を下げただけだ。ペーパー試験にだけ強く、実際の経営などできる筈もない軟弱なエリートの考えることは、なんとも浅はかだなあと思うことが多い。

 そうした低級なレベルの仕事をして、ムーディーズは自分の仕事に何ら責任をとらない。責任をとる必要がない。
 なんでそういうことがまかりとおっているのかというと、金融界において、そうした”権威”がなければ、それぞれの会社や社員が、自分の判断に対して自分で責任を取らなくてはならなくなるからだろう。
 「権威ある機関(人)が高い格付けをしているから安心です」という論理だ。
 この論理は、金融界に限らない。アートなどにおいても同じだろう。権威的評論家は、アート商品を売買する人間にお墨付きを与える存在であり、仲良くしておきたい便利な存在であり、そのことのためだけに存在している評論家は多いと思う。
 そうした評論家とメディアの協力を得て仕掛けを行えば、アート商品もまた、その金額を高騰させることができる。
 金融商品であれ、アートであれ、一般の人々が、「自分はどう思うのか、どう感じるのか」という余地を、どんどんと持てない複雑怪奇な方向に向かっている。それは一つの企みであり、そうした状況をつくりあげることで、”仕切っている側”がイニシアチブをとれる構造が維持されている。
 このように”仕切っている側”(力を持つ側)にとって優位な構造をさらに盤石なものにするためなのか、人が言っていることを右から左に流すことが、教育界やインテリ層で当然のことのように行われている。最近では、ブログのなかでも、アクセス数を増やすためなのか、情報網として、他者のブログを貼り付けるだけのものも多い。
 情報を右から左に流しながら、「その情報の価値は、それを受け取る人が判断すればいい」などという人もいるが、誰も慎重な判断など行わず、そのまま右から左に伝言ゲームのように流しているのが現状だろう。
 ニューヨークのメディアが報道したことを、日本のメディアがそのまま伝え、それを見た人も、そのまま友人に伝えていく。しかも、大勢がそうしていればなおさら安心ということで、どんどんと群が大きくなる。
 サブプライムローンにしても、信じがたい規模の販売が行われているが、立ち止まりながら確認しながら慎重に判断しながら売買が行われていたわけでなく、ほとんどのケースにおいて、安易に右から左へだったのだろうと思う。
 こうした時代だから、職人のように物事に敬意をもって慎重に進めていく人ではなく、右から左へ流しやすい仕組みをつくった人が、成功者になりやすい。

 そして、「自分で判断させない時代」が続くかぎり、既得権などの力をもっている者の優位は続く。学校教育でも家庭教育でも、自分で判断させず、正しいとされる答を覚えることばかりになっている。

 自分で判断せず、モノゴトを右から左に流すスタンスは、当人に自覚がなくても、そうした時代の構造を強化することにつながっている。

 そして、どんどんと、その構造は巨大で強固なものになっているような気がする。体制批判をする人たちも含めて、誰かが言っている「良いとされる価値観」を右から左に流すかぎり、それに荷担している。