「揺らぎ」を排除する教育

 昨日の夜、仕事から帰ってテレビを付けると、ニュースの特集で塾のことをやっていた。夏期講習を無料にして、生徒の獲得競争をしているらしいが、9月から正式に塾に通い始めると、授業料や模擬試験で月に七万円もかかると言う。

 にもかかわらず、子供のためだからといって、親は子供を塾に通わせることを悲壮な顔で決心している。

 年収100万円で漫画喫茶を泊まり歩く人も多くいる一方、毎月の塾の費用が7万円という現実がある。この番組を見ていて、暗澹たる気持ちになってきた。

 私は塾に通ったことがないし、塾とか家庭教師のアルバイトもしたこともない。

 塾に行くことで子供が勉強する気持ちになるのなら、それでいいじゃないかという意見もあるだろうが、学校以外の学習のために月に7万円も負担することが、どうしても健全なことだと思えないのだ。

 塾での勉強はいったいどういうものなんだろう?

 テレビなどを見て察するところ、先生に問題の解き方を教えてもらい、それを身につけるということをやっているように見えた。つまり、ハウツーの獲得だ。

 この世の様々な出来事には全て答えがあり、その答えに、速く簡単な方法で行き着くことが、試験に勝つ秘訣だということだろう。

 幼い頃からこうしたトレーニングを積んでいるのだから、ハウツー本が売れるのも当然なのかもしれない。テレビの人気番組も、そういうクイズものが多い。答えを得て、スッキリする類だ。

 そして、会社に入ってきても、先輩や上司から「仕事のやり方」を丁寧に教えてもらえるものだと安易に思う。やり方を教わらないと何もできず、何もできない自分に問題があると感じず、教えない方が悪いとか、教え方が悪いなどと不平を持つ。

 でも、実際に仕事をしていると、決められた答のない状態で自分なりの方法を手探りしながら前に進まなければならないことや、流動的な状況のなかで昨日までの「やり方」が通用しないことが多い。そういう時の対応方法に馴れていないと、思考停止状態に陥ったり、パニックになってしまう。だから、敢えて「やり方」を教えず、答えの無いところから足掻く訓練をさせる必要もあるのだ。

 さらに実社会で弊害になるのは、「予め存在する答で問題を埋める」という思考の癖に染まりすぎていると、問題そのものを発見する思考回路が閉じてしまうことだ。

 具体的にどういうことかというと、会社のなかで決められた「答え」(マニュアルなど)に従って仕事がなされている場合、その答えが状況に添わなくなっているという感覚が働かなくなる。空欄があれば、それを埋めるために、どこからか答えを探してこようという感覚が生じるのだろうが、空欄に誰かが答えを書き込んでいれば、その答えを検証しようという衝動が生じにくい。

 実はそういうケースは大変多く、たとえば、会社の商品を説明するコピーなどが文章としておかしなものになっていても、それをおかしいと思う感覚が麻痺する。自分がそれについて答えを出す人でないという意識によって、その答えがおかしいかどうかを判断する感覚すら遮断されてしまうのだ。

 それを見た時、瞬間的に、生理的に、「おかしい」という感覚が生じても、個人的な感覚を無意識に封印してしまう癖がついている。自分の生理的な直感より、自分の与り知らないところで決まっている「答え」の方が尊重されるべきものだと、知らず知らず、擦り込まれているのだ。

 自分の感覚に何らかの「揺らぎ」が生じた時、その揺らぎを止めて前例の答えにならう、という条件反射が長年の間にトレーニングされている。

 「揺らぎ」を増幅させると、気になって悶々とする。その悶々のなかから「こんなんでいいのだろうか?」という新しい問いが立ち上がる時に、創造行為が始まる。その問いに対して、どこかから答えを見つけ出してくることが創造行為なのではないと思う。とりあえず見つけ出してきた答えに対しても、「こんなんでいいのだろうか?」と気にかけ、心のどこかに常に気にかけ続けていると、目にするもの、耳にするものなど感覚機能から入ってくる情報に鋭敏になり、あれやこれやの試行錯誤の果てに「これでいいのだ」と自分自身が素直に実感できるものに出会う。その出会いこそが、創造行為ではないか。それは、“降りてくる”という感覚のような気がする。

 揺らぎを止めてしまうと、感覚回路は遮断され、出会うべきものにも出会えない。

 塾というものは、今日の教育の仕組みのなかで優位に生きるために作り出されたものだ。それを利用しなければ、今日の教育の仕組みのなかで不利を被るから、そこに大金を注ぐ。しかし、もしも今日の教育の仕組みに欠陥があれば、塾はその欠陥をさらに強化するシステムでもあるということも知っておかなければならないのではないか。

 今日の教育の仕組みの最大の欠陥は、一言で言うなら、誰かが予め定めた答えに至ることを必達の目的にすることだと私は思う。マークシート試験などは、その典型だろう。用意された答えのなかから正解を探すというだけが求められるが、そうしたスタンスにおいては、用意された答え以上のものがあるかもしれないという思考回路は遮断される。

 しかし、実際に生きていると、誰かが用意した答で済んでしまうということは、あまり無いのだ。

 仕事の現場でも、一つの決まった答えで済んでしまえば楽には違いないが、そういうわけにはいかない。常に新しい状況のなかで、新しい問いを立てて悶々とし、今までに無い答えを絞りだしていくことが求められる。

 仕事の現場でなくても、何故生きているのだろう? などという問いは、日頃忘れていても、隙を見せればすぐに顔を出す「揺らぎ」だ。そうした問いに対して、親とか教師とか友人が示す答えでは素直に納得できず、それ以上のものがあるかもしれないという疑問は、誰しも心のどこかに宿らせている。そうした疑問を持たずに、与えられた答えを信じて頑張った方が現実社会で優位になるという考えが支配的なのだが、そのように「揺らぎ」を排除するスタンスこそが、既にある答えを疑う意識の弱さ、すなわち、問題意識の低さや問題発見力の無さにつながり、そこから企業や役所などの様々な不祥事が生じていることも事実だろう。すなわち、今日の教育は、実社会を乗り切るためにあるように見えて、実際はそうはなっていない。教育の仕組みが導き出す序列が社会的ポジションを獲得するのに有効であっても、そのポジションについてからの現実対応のために、まったく別の力が必要なのだ。ポジションを獲得しても、まるで力を発揮できないというケースは増えているし、そのことが組織全体の腐敗や崩壊につながっていくことも多い。

 今日の様々な不祥事は、特定の悪人の仕業なのではなく、社会を覆い尽くす思考の癖と、それを強化する教育の仕組み、さらにその仕組みを増強する塾をはじめとする教育の周辺環境や、それに寄り添う出版やテレビなどの風潮が根深く影響を与えているのだと私は思う。

 この国の社会制度のなかで生きる以上、今日の教育の仕組みを、欠陥があるからといって全て切り捨てて生きていくことは難しい。ひとまず社会の矛盾を引き受けて実体験するという覚悟で取り組むことも大事なことなんだろうと思う。ものごとは、ある日突然全面的に変わるということはないのだから。

 だからといって、その教育の仕組みに対応することだけを目的化し、その結果にもたれかかり、期待しすぎると、痛いしっぺ返しに合うことになると思う。あれだけ努力して投資もしたのに、その報いは少ない、いったい何だったんだという現実に直面する。予めそのことを承知で、学校の教育や塾ばかりでなく、幅をもった視点で子供と付き合っていった方がいいのだろう。そうしたことがすぐに役立つかどうかなどと考えたりはせず。

 子供以前に、自分自身の幅をつけて、揺らぎを能動的に生かす思考特性を備えていくことの方が先決だろうし、それはいつからでも可能なことだろうと思う。


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