本屋という空間が、新たな認識の起点になる。



6月11日(金)〜7月10日(土)まで、一ヶ月にわたって、池袋のジュンク堂の一階、レジ横の大きな壁面スペースで、「風の旅人」のキャンペーンが行われる。

テーマは、「心を旅する、心と旅する」。

 創刊号から最新刊の第40号までがズラリと展示され、掲載者の著書や推薦本なども紹介される。大竹伸朗さんや、望月通陽さんにデザインしていただいた表紙の変遷を含め、40号までの長い足跡を一挙に見ることができる。池袋に立ち寄った際には、ぜひジュンク堂を訪れてほしい。

 

池袋のジュンク堂は、東京でもっとも好きな書店の一つ。インターネットという便利なツールができたおかげで、最近、オンラインショップで本を買うことが多くなった。しかし、オンラインショップで買った本を、途中で投げ出すことも多くなった。出会いの時点で、本と自分が引き合っていないからだ。 

 これまで読んできた本のなかで自分の中にずっと残っている本の多くは、書店の中を彷徨っている時、本の方が私に呼びかけてきたものだ。人に勧められたり書評を頼りにするよりも、本から呼びかけられるという感覚が、自分にとって、とても大事なことだとつくづく思う。

 「風の旅人」を編集する際の写真との出会いや編集も、ずっとそのように呼ばれるという感覚で行われてきた。本屋や展覧会などで作品の方から呼ばれる感覚、これは自分にしかわからない微妙なもので、他人に説明することは難しい。

 そして、作品から呼ばれるような状態の時は、自分自身が、それ相応のテンションになっている。日常的な価値基準ではない別の基準が自分のなかに存在しているのだ。

少し昂ぶって緊迫しているけれど、心鎮まり、集中力のある状態。そういうモードで、本の装丁やタイトルなど本全体が持っているオーラが自分に語りかけてくるのを待ち、時々、手を伸ばしてページをめくり、何行か読んで棚に戻すということを繰り返しているうちに、しかるべき出会いが生まれる。

 本屋というのは、そのように人を6次元モードに導く空気がある。最近は、テレビなどで紹介される話題の本を積み上げ、賑々しいPOPで人目を引こうとする店が多いが、それらのアピールは、日常的感覚に媚びたもので、それを手に入れたところで、自分の中が変容することは、あり得ない。

 本との出会いは、自分の中に潜在していながら自分が未だ気づいていない領域に刺激を受けることであり、そうしたものとの出会いの為には、自分の全身感覚を総動員するしかないのだ。

 だから、足を運びたいと思える本屋が少なくなってしまうのは辛い。オンラインショップで買っても失敗することが多いのは、全身の感覚が決して鋭くない状態のまま、とりあえずの“資料”を得る感覚になっているからだろう。

 資料としての本が必要な人は、それでいい。しかし、今の自分は、あまり資料を必要としなくなっている。資料としての本がなくても、さほど困らない。資料ならば、本である必要はなく、ネット上の情報で十分だからだ。

 私が、本や本屋さんに求めるものは、資料ではなく、現状の自分を少しで入れ替えてくれる働きのあるもの。精神の新陳代謝を促すものだ。肌の細胞が28日の周期で入れ替わってこそ瑞々しさを保てるように、思考や感性の回路に関わる脳および全身の細胞も周期的に入れ替わらないといけない。同じ状態にとどまって、ごわごわとした角質層のようになってしまったら、新しい感性や思考の発生も阻害し、不健康になってしまうのだ。

 どんな生命も、安定して留まることよりも、常に入れ替わり続けることで、自然に健やかな状態でいられる。

 もし可能ならば同じ時点に留まって、その場を守りたいという願望を持つものもいるが、たとえ自分が変わらなくても環境は変わり続けるので、けっきょくのところ同じ状態にい続けることなどできない。

 本屋の中を流れ歩きながら出会うべくして出会う存在と出会うこと。その感覚は、ネットサーフィンでの出会い方とは、また別のもの。ネットサーフィンの場合は、急速に表面的な広がりを獲得できる。しかし、その場で見て確認するだけでは、モノゴトは深まっていかない。空間とか距離感を掴まないと、モノゴトと自分の関係は深まらない。

Ipadをはじめ、ITの便利ツールは、空間と距離を無くす方向へと進化している。そして、その支持者達は、そのことを賛辞する。

本来、われわれ生物は、空間と距離のなかで生きているのが普通だから、それを無くしていく作用を持つものに出会うと、新鮮であり、衝撃を受ける。時空を超える超能力者やタイムマシンなどは、人間が憧れるものの究極的な姿だろう。

そして、人間(とりわけ西欧人)は、そういうものを“神”のように崇めている。空間と距離の無い世界は、物理的存在である人間にとって別次元の領域だからだ。

スティーブ・ジョブスのカリスマ性は、きっとそのことと関係ある。

ジョブスの親友でオラクルのCEOであるラリー・エリソンが、ジョブスの家に遊びに行った時、家具がなかったと話している。エリソンは、ジョブスという完璧主義者を納得させる家具がないからだと説明するが、室内と家具という空間構成にジョブスが関心を持っていないからかもしれない。また、歳月を経て深まる家具との関係性に興味がないからとも言える。アップルが作り出すものの背景には、そうした冷徹さがあるような気もする。アップル製品はヒューマンタッチであると形容されるが、ヒューマンタッチ風にすぎないものを、ヒューマンタッチであると錯覚させるレベルまで作り上げているにすぎず、それをヒューマンタッチであると信じさせられ、ジョブスが神のようにコントロールする世界の住人にさせられているだけかもしれない。

空間と距離を無くしていくものに憧れるのは、哀しい人間の性であるが、どんなにヴァーチャルな世界に入り浸ろうが、人間は、物理的な存在であることから逃れられない。そして、その人間が空間と距離を無意味化していくことは、自分自身の物体性を貶め、否定することにもつながる。

物体は、空間と距離を得ることで、他者と響き合い、呼応し合い、新たな意味を獲得し、単なる物体を超えた関係性の賜物になっていく。

そうした出会い方を可能にする感度を高めていくためには、空間と距離のなかでの時間の積み重ねが必要だ。ふだん書店に行かない人が、突然書店に行っても、運命の出会いは難しい。日ごろから書店に足を運び、機が熟するのを待つことも必要なのだ。行けば必ず何かが得られなければ意味がないと考えてしまうのは、即効性に毒された体質のためであり、無駄足を何度も運ぶことで、感度が少しずつ高められていく。即効性のある薬を飲んで安心することよりも、そうした感度を深めておいた方が、いざという時に、局面を打開する力になるような気がする。

新たな認識の起点は、そのように、一見、無駄足のようなことのなかに潜んでいる。

この世から書店が無くなり、全てオンラインショップのようなものになってしまうと、たとえばアマゾンの誘導メッセージ(この本を読んでいる人は、この本も読んでます)のようなものに引っ張られて、自分が認識できる範疇のことを自分の中で繰り返しコピーし続けるという、狭く閉じた(空間と距離がない)読書になってしまう懸念がある。