不器用の器用

先週末、大きなカルチャーショックを受けた。

写真家の志鎌猛という人がいる。写真を初めてまだ8年ほどだが、森の写真を大型カメラで撮ってプラチナプリント等で発表している。日本ではあまり注目されていないが、海外のギャラリーで個展をすると、ギャラリーが高額な値を付けるにも関わらず、数多く売れてしまう。

彼の写真は、とても微妙な階調があるため、印刷表現ではうまく伝えきれない。残念ながら自費出版で出した写真集は、構成をはじめ、様々な側面で彼の写真の良さが引き出せていない。

ホームページでも、その良さは伝わらない。

複製が簡単に作れてすぐにコピーが増殖するデジタル社会のなかで、他の人が簡単に真似ができず、複製もしずらい独特の味わいを彼のプリント作品は醸し出しているのだ。しかし、その撮影対象は、普通の人が簡単に行けない秘境ではなく、私たちの傍らにある日本の森である。

現在、地球上には秘境は無くなりつつある。昔ならば、誰も見たことのない物を撮りさえすれば、人に驚きを与えることができた。しかし、今は、秘境の写真は珍しくも何ともない。コンピュータ技術によって複製だってすぐに作れる。人が簡単に真似することのできない作品というのは、もはや、対象の選び方によって決まるものではないのだ。

志鎌さんの森の写真が、なにゆえに彼ならではのものになるのか。その答は、写真のことだけを分析しても得られない。

写真を始める前の10年間、彼は、森の中に一軒の家を建て続けていた。

それ以前、家を建てるための土地探しの為に数年を要している。土地を見つけて交渉し、山林を購入した後、彼は、その場所の木を切ることから始めた。家を建てるためのスペースを作る為と、家の建設材料を確保する為だ。当時、彼は、東京で仕事をしていたので、週末だけテント持参で森に来て、そこに寝泊まりしながら少しずつ作業を進めた。

そんな彼は、それまで日曜大工すらしたことのない人だった。だから最初は、自分で家を建てるなんて夢にも思っていなかった。ごく一般の人と同じように不動産屋に行き、「いい物件はありませんか」と尋ねるところから事は始まる。中古の物件を手に入れて、それを手直しするくらいなら自分でできるかもしれないという程度の考えしか彼は持ち合わせていなかったのだ。

彼の面白いところは、人との出会いやアドバイスによって、それまで思いもしなかった境地へと足を踏み出すこと。

まず第一歩は、自分が気にいった土地で親しくなった住民が、「家なんか自分で作れるよ、俺が教えてやるよ」と声をかけたこと。その言葉によって志鎌さんは、半信半疑ながら、彼とともにコツコツと作り始めるのだ。作り始めることによって要領がわかってくる。家づくりに関する様々なことに興味を持ち、調べる。すると、自分で作りたいもののイメージもできてくる。どんどんと欲も出てくる。そうしているうちに、徹底的に独力で作ることにこだわり、巨大な窓ガラスのはめ込みも、きめ細かなフローリング敷きも、壁の左官工事も、下水処理も、浴室だけでなく浴槽じたいも、水道工事も全て、学習しながら自分の手でやってしまったのだ。おまけに、立派な茶室まで作ってしまった。そのどれもが素人っぽいものではなく、きちんとしたプロが作り上げたものに等しい仕上がりになっている。(面白いのは、浴槽など最初は水が洩るのだが、使っているうちに隙間が埋まって洩れなくなるのだそうだ)

私は、実際にその家で過ごしているうちに、「こういうこと、できるもんなんだあ」と非常に驚いた。

以前、富士山のすぐ目の前の家に住んで富士山の写真ばかり撮っている写真家の大山行男さんを訪ねたことがある。彼も独力で家を建てた人だ。彼の場合は、三角形のピースをサッカーボールのように組み上げて作る規格品の家だった。それを見た時も驚いたが、志鎌さんの家は伝統的日本建築のように、土台も大黒柱も梁も、立派な樹木が使われており、そのディテールの美しさに目を瞠った。そして、それらの木は、全てそこに立っていた赤松なのだ。

彼は、自分で切り取った木を一切捨てていない。10年間、その場所に通い続けたので、その期間の食事作りでも使用したが、家が建った後の現在も、風呂を薪で沸かしている。

そんな彼を見ていると、現代文明によって人間の手仕事の多くが失われてしまったが、人間は意外と簡単に元の技術を取り戻せるのではないかと希望のような感覚すら抱いた。

しかし、なにゆえにこんなことが可能なのか。志鎌さんと話をしていて、私たち現代人の概念が反転するようなエピソードが幾つかあった。

例えば、彼は森の中にテントを張って寝泊まりしながら、まず家の柱を作った。その後、壁を作り始め、壁によって少しずつ森と家が分断されていくと、非常に落胆したのだと言う。家づくりが目的ならば、壁ができていくことは完成に近づいていくわけで嬉しい筈だ。早くゴールに近づきたいという気持が生じるのが普通だろう。完成されたものを意味あるものとすると、完成までの時間は無意味。だからできるだけ少ない方がいい。

しかし、こうした気持ちが落とし穴なのだ。焦りを生むし仕事が雑になる。早くやってしまおうと焦ると狂いが生じ、結果的に時間がかかってしまうということだってよくある。

志鎌さんの場合、完成していくことが残念でならないという気持が強くあった。だから、プロセスを焦ることがまったくない。自分の手が介在することは、もともとそこにあったものが失われること。だから、自分で手を入れながら、失われていくものをしみじみと愛しむという感覚がつきまとう。自ずから一つひとつの仕事は、丁寧になる。

 パーツによって家という全体を構成するのではなく、元々そこにあった空間を自分の手によって消失させてしまい、結果的に、そこに家が立ち現れるという感覚。

 彼は、壁の面積が増えるたびに、また床材を敷いていくたびに、失われていくスペースや、それらが介在しなければ存在していた繋がりが断たれていくことを残念に思いながら、その時間の全てを味わい尽くし、ゆっくりゆっくりと手を進めていったのだ。

 そして、10年の歳月をかけて周りの世界と絶妙に調和する家ができた。彼の家からは雄大な山並みが見えるが、その手前に美しい棚田が広がっている。それらの棚田もまた、きっと志鎌さんの心境と同じように、人間が自然の中に介在しながら、プロセスを慈しみながら、ゆっくりゆっくりと丁寧に作り上げたものだろう。

 もしかしたら、ピラミッドでさえそうかもしれない。完成形だけを目的とする現代人の発想だと、完成までのプロセスは全て苦役となる。しかし、それは現代人特有の概念であり、いにしえ人は、そういう発想ではなかった可能性がある。

世界との関係性が色濃くにじみ出るのは、プロセスのなかだ。生物にとって、一つの完成形よりも、精妙な関係性の持続こそが、本当は有難いものなのではないか。

蜂の巣の美しい造形も、その造形を目的として作られたのではなく、大事なプロセスの無限の積み重ねの果てに必然的に生じただけのことだろう。

 家が完成した後、志鎌さんは、周りの森を彷徨っていた。その時、木が中途半端に伐採されて、森の中にぽっかりと真空状態が出現した場所に出会った。突然、志鎌さんは、森の写真を撮ることを決意する。

 そして独学で、撮影技術だけでなく現像やプリント技術も取得し、立派な暗室まで作ってしまった。家を丸ごと一軒作り上げた人にとって、そんなことは簡単なことだ。

 それ以来、彼は日本中の森の中に入っていき、写真を撮り続けている。

 彼は、森を撮っているのではなく、森に写真を撮らされていると言う。森の中に家を建てるために樹木を伐採し、手斧の刃先からほとばじった樹液を返り血のように浴び、その匂いを全身に感じ、厳かな森の中に自分の手が少しずつ介在していく家づくりを通して、彼は、森の声を聞き続けた。

 そんな彼が、森という対象を、自分本位にデザインするような感覚で切り取ることができる筈がない。彼は、どんな場面でも一回しかシャッターボタンを押さない。うまく写っていなかったとしたら、それは自分に非がある、もしくは邂逅がないからと受け止める潔さがある。自分にとって都合の良いスタンスで森と向き合うことはない。なぜなら、自己顕示欲のために「森」という対象を選びとって、自分かってなイメージで処理しているわけでなく、森の語りかけに応じて動いているだけだから。

 そんな境地は、言葉でいくら説明しても説明できるものではないし、頭で理解しようとしても理解できるものではない。

 一つの物事を、最初から最後まで、全体から細部まで、時間をかけて丁寧に取り組んだ人だけにしかわからないことなのだ。

 分業化された組織のなかで与えられた役割を器用に素早くこなす人がいるが、志鎌さんは、そうした器用さは、まったく持ち合わせていない。はっきり言って、不器用な人だ。

 しかし、熟練度は、とても早い。家にしても写真にしても、振返ってみると、きわめて短い間に、隅々まで知恵を習得している。さらに、写真の欧米への売り込みにしても、業界のことは何も知らない世間知らずが、一つひとつギャラリーに足を運んで実際に写真を見てもらうという愚直さを重ねながら、実現している。

 彼のやっていることは、現代の通念では非常に不合理な方法のように思われるのだが、成就までが早い。

 効率を追求して回転を増やしても、空周りして、ずっと同じところに留まっているのが現代生活。けっきょく、個人としては、全体のパーツの一部になるばかりで、自力で何もできるようになっていかない。

 パーツになることが生理的に苦手な人は、現代社会のなかで不器用者であり、いろいろと葛藤もあるが、そういう人ほど、自分の持ち味を総動員して取り組める対象を希求しながらアンテナを張っている。社会のなかで自分の不器用さにめげることなく、アンテナを張り続けているかぎり、きっと巡り合わせがある。

 自分の持ち味を総動員して取り組める境地に至ると、それまで不器用と思われていた人が、驚くべき早さで、物事を成就していく。志鎌さんは、50歳を過ぎてから写真を始めたが、それまでの人生の全ての体験が、現在の彼の写真に流れ込んでいる。

 彼は、それまで写真家になろうと思ったことはなかった。

 なろうとして何かになろうとする人は、焦りが生じる。なるべくして何かになる人には、焦りがない。そして、そういう人は、結果よりもプロセスのなかにある豊かさを知っている。プロセスの豊かさを知らない人が作り出すものが、人生というプロセスを豊かにできる筈がないではないか。

 現在の多くの表現は、プロセスよりも「結果」にばかり目がいく人が、「結果」を素晴らしく演出し、「結果」にばかり目をいく人を羨ましがらせ、同時に憧れを抱かせ、それを目標にさせるというメカニズムの上に行われているものが多い。そのようなメカニズムによって注目されることが、「結果」追求型の自称アーティストにとって成功であり満足なことになるが、そういう人は、常に、「結果」が気になり、焦り続ける。

 しかし、「結果」を狙って演出されたものは、長い歳月を持ちこたえることはなく、やがて、何も存在しなかったように人々の記憶から消えていくことになる。

 社会で成功してプール付きの豪邸に住むことと、自分の手で丸ごと作り上げた家に住むこと。どちらが幸福かは人それぞれの感じ方だろうが、これからの時代、どちらが飽きやすいかということを考える必要があるだろう。

移り変わりが早く、一時は価値あると賞賛されたものが、いつの間にか忘れ去られる世界。長い時間軸の中で判断すれば、飽きのこないものこそが価値あるものであり、なぜ飽きがこないのかというところに、現代人があまり意識できていない大事な摂理が隠されているのだから。