電子書籍化に向けて

 アップルのipadが社会的に注目を浴び、それに対抗するGoogleのOSを積んだタブロイド型の端末が中国で1万円ほどの価格で売り出された。秋には、Googleをはじめ、電子書籍のプラットフォームをめぐる攻防が、いっそう激しくなると言われている。

 パソコンが、10万円〜20万円くらいの価格だったのに対して、ノートサイズのタッチパネル式のタブロイド型端末が1万円〜3万円くらいの間で売り出されるようになると、あっという間に、この機器を使った情報伝達環境が教育やビジネスの現場を中心に整備されていくのは間違いないだろう。

 紙の本の魅力は無くならないという意見は多く、私もそう思う。しかし、現在、社会に流通している情報で、敢えて紙を用いなくてもいいものが莫大にあるのも事実だ。

 今後は、紙だからこそ価値あるものと、紙でなくてもいいものが明確に分かれてくる。また、紙の世界では困難だったことが、電子の世界で簡単になるものがでてくる。

私は、これまで「風の旅人」という紙の雑誌を作ってきて、これを電子書籍にするかどうか色々考えたが、今の段階で敢えて電子書籍にする必要はないと思っている。

 ただし、「風の旅人」で実現したかった世界を、電子書籍ならではの方法で実現していくことは可能ではないかと、最近、思うようになった。

 とりわけ、私が、「風の旅人」のなかでエネルギーを注ぎ込んできた写真のことだ。

 現在、出版社が書店流通向けに作る写真集は、「一般受け」を狙ったものが多い。そして、写真家が自らの表現を世に問うような形で作っている写真集のほとんどが、自費出版であることはあまり知られていない。しかも、そのコストは、1000部ほど作るのに200万〜400万円ほどもかかる。そのうち600部ほどは作者自身の手元に置かれ(つまり作者自らが販売する)、残りは写真家の望みである書店流通に流れるけれど、その販売利益は出版社のものになるという、写真家にとっては足元を見られている形式の何とも悲惨な状況なのだ。

 自らのテーマを持って時間をかけて写真を撮っている写真家の写真は、一般受けしない(つまり消費社会に向いていないから売れない)という理由で、出版社は自らリスクを負って出版をすることはない。それゆえ、写真家は、自らの表現を世に問いたいがために、金を貯め、自ら支出して写真集を作るのだ。しかし、いくら作ったとしても、それを世に知らしめるための流通を持っていないという弱みがある。

 電子書籍が広がっていくと、自分で写真集を発行する人も増えてくるだろう。品質の悪いものが出回ると批判的に言う人も多いが、ならば電子書籍ではなく既存の紙の写真集で、品質の良いものが出回っているのかというと、そうではない。

 むしろ、紙の写真集の場合、本という形にすることで出版社が御墨付きを与えているので、品質が悪いものでも、それなりに意味があるもののように見えてしまうことがある。出版社が、新人賞など権威付けを行って世に出すことで、それが新しい才能であるかのように信じこませる力さえある。とりわけ自分の価値判断に自信がない人は、そうした権威評価に影響を受けやすい。

 紙の出版物世界のなかでは、出版社と、その周辺に寄生する評論家などの権威装置が評価付けを行い、その評価言語によって写真界の動向が作られていた。すなわち、評論家の洞察力が足らず言語でその価値を伝えにくい表現は、横に置かれていたのだ。

 電子書籍でありとあらゆる作品が数多く形となって現れてくると、出版社や評論家の評価付けは次第に不必要になってくるだろう。写真集として組まれた作品そのものを見て、インパクトがあるかどうかだけが問われるのだ。

 何千円もする写真集の場合、自分がいいと思えば買うというストレートな行動をとれる人は限られている。多くの人は、書評をはじめ、様々な権威付けに影響を受けてしまうものだ。しかし、数百円で買える電子書籍なら、自分の判断でとりあえず買って見てみるということが、紙の出版物よりも多くなるのではないか。電子書籍の写真集は、評論家や出版社などの価値付けのイニシアチブが、口コミなどに取って代わられる機会になるだろう。

 私は、これまで出版社に属したことがないし、この世界にコネがあったわけでもない。それゆえ、「風の旅人」を創刊し、今日まで続けてくるなかで、大手出版社を中心に作り出したトーハンや日販など書籍取次流通において、非常に不利な条件で仕事をしてこなければならなかった。大手出版社を中心に、毎日、200点を超える新刊本が書店に流し込まれる現状のなかで、「風の旅人」が書店に置かれることじたいが簡単ではなく、池袋のジュンク堂のように120以上の表紙面が並ぶという広大なスペースで一ヶ月にもわたってキャンペーンをやってくれるなどというのは、奇跡のように思われる。

 ただ、ジュンく堂のようなことは、現在の出版システムのなかでは極めて例外的なことであり、この世界のなかでいくら悪戦苦闘しても、不利な闘いを続けていくことに変わりはない。

 面白いのは、「風の旅人」は、この7年間で、6月27日の中日新聞に限らず、朝日、読売、毎日、北海道その他、様々な新聞で数多く取り上げていただいたが、大手出版社が発行する雑誌などで紹介されたことは一度もない。出版界は、社会的な存在であるかのように錯覚させられているが、実際は非常に私的で内向きな存在であり、ほとんどの会社が上場もしておらず、経営の実態も社会的に開示されていない。

文化人や言論人を周辺に寄せ集め、様々な「賞」を授けるという権威装置などによって社会的な存在であるかのような演出をしてきただけなのだ。それを可能にしたのは、印刷と流通を握っていたこと。それにつきる。表現者がいくら良いアイデアや作品を持っていても、印刷と流通に御世話にならなければ世に出せなかったのだから。

 電子書籍は、そうした構造を変化させる力になると思う。すべての者が、同じ条件で戦える土俵が、少なくても以前よりも大きくなる。

 私は、電子書籍をやりたいのではなく、自分がこれまで「風の旅人」をつくってきたのと同じスタンスで、電子書籍という場に応じたものをやりたいと思う。

 私は、非常に数多くの写真家と接してきて、無数の写真と向き合ってきた。写真のことがわかるとか、わからない等というのは、言葉の上で論じあっても意味がない。

 写真の中に秘められている力を引き出し、写真を生かすことができる人が、写真のことをわかっている。展覧会や写真集など実際に自分の手で構成したものが、どのようなものになるか。学芸員や評論家や編集者の力量は、それによって判断される。そうした当たり前のことが、今後は、よりいっそう明確になってくるだろうと思う。

 というようなことを口先で論じることもまた無意味。実際にやってみせることが大事なのだ。

 現在、なんとか「風の旅人」の第41号(10月発行)という紙の出版物を出すことは決め、準備を進めている。しかし、これ単独では、やはり運営は厳しい。様々な仕事を合わせてトータルで考えなければならない。写真を中心に電子書籍を行っていくことも、その一つ。しかし、ただ何となく電子写真集を出せばいいということではなく、写真の可能性を信じ、その力を借りて現代社会のパラダイムを少しでも揺さぶりたいと思いながら「風の旅人」を作ってきた人間として、そのスタンスを変えずに、新たなインフラのなかで挑戦すること。後発組として厳しい戦いを強いられてきた紙の出版物の世界で、少なからず得ることができた知恵を生かしながら、みんな横一線の同じ条件のなかで新たに始めること。

 しかしながら、私の現状の力では、写真家との対話力や写真に対する知恵は少しはあるが、電子分野のノウハウはないので、そちら方面に強い人とタッグを組んでいかなければならない。

 電子分野での勢力拡大を虎視眈々と狙っている企業から、一緒にやらないかという話は幾つか来ている。しかし、それは「風の旅人」を創刊した頃、デザイン会社や、編集プロダクションなどから売り込みがあったのと同じだ。既存の出版業界の仕事の仕方が、そうした下請け会社を数多く作り出した。しかし、私は、物作りに関しては、会社組織と組むのではなく、実際に手を動かす個人が信頼できるかどうかの方が大事だと思っている。

 私は、電子分野の専門会社に利用されて、彼らのコンテンツ作りの一部に部品のように組み込まれるのは厭だ。

私は、「風の旅人」の場合は、物作りのスタンスにおいて共感できる2人のフリーデザイナーと組んで3人で作ってきたし、結果的にそれがよかったと思っている。おそらく電子書籍の場合も、そういう方法でできるのではないかと思っている。組む個人の数が変わることがあっても。

 何であれ、「風の旅人」の場合もそうだったけれど、一緒に作る物を通じて、どういうことを社会的に実現していきたいか、その考えを共有していることが大事だ。

そういう感覚さえしっかりと持ち続けていると、不思議な縁で、必要な人が目の前に現れる。今までずっとそうだった。今回もきっとそうだと信じて念じている。

 kazesaeki@gmail.com