しみじみとうまく、しみじみとさみしい

「しみじみとうまいことと、しみじみとさみしいことは、なにかどこかでとても低通している。」

 と、昨日、田口ランディさんが自分の日記に書いているのを見て、まさに自分もそう感じていたところなので、驚いた。面白いもので、以前にも何度かそういうシンクロがあった。

 昨日は、京橋のフィルムセンターでやっているポーランド短編映画特集を見て、子供のいたずらを撮った何でもないモノクロ映画にとても感動した。その後、取材したばかりの介護現場の写真を写真家から見せてもらった。肺気腫のため呼吸器がなければ生きていけないお爺ちゃんと、それをしっかりと支える太めのしっかりもののおばあちゃんの写真が、現代の「聖画」のように見えてきて、心が痺れた。

 外は時折激しい雨が降ったり、やんだりしていたが、その雨脚に目をやりながら、写真家と長時間話し込んだ。

 写真には老夫婦と素敵なヘルパーが写っているのだが、その背後に、神棚があり、亡くなったお爺さんの妹の描いた絵が背後霊のように壁にかかっており、その横に、お婆ちゃんが作りあげたジグゾーパズルの龍と虎と蛇の絵模様が、すごい存在感を放っていた。

「この写真の光景って、なんか奇跡的にすごいよなあ。物たちが、ここに来たい、ここに居たいと呻っている感じだなあ」と、しみじみと語り合っている時、その時間が、なにかとてもしみじみとうまくて、しみじみとさみしかったのだ。

 古くから人間は「聖画」を描いてきたけれど、もしも現代に「聖画」というものがあるとすれば、それはこういうものではないかと私は思った。

 そして、「風の旅人」を通じて紹介していきたい写真は、現代の「聖画」になりうるものなのだと思った。上手いか下手か、モダンかオールドか、現代風かそうでないか、キッチュか正当か等々、写真に関する評価は様々にあるが、私はそんなことどうでもいい。唯一つ、現代の「聖画」であると自分が信じられるものかどうか、ということを軸にしたいと改めて思った。これまでは、「聖画」という概念はなく、自分の感覚を大事にして写真を選んでいたのだが、その選び方に言葉を与えるとしたら、たぶんそういうことなのだろう。

 そういうことを考えたり、語り合ったりしている時間は、高揚するところもあるのだけど、なぜか、しみじみとさみしいところがあった。さみしいという感覚は不満なのではなく、どこか有り難みに通じるところがある。その時、日野啓三さんをはじめ自分にとって深い恩義のある人たちのことを同時に想い出していた。

 なんというか、自分を超えた何かと自分が細い線でつながっているという感じ。その細さが、しみじみとさみしくて、しみじみと有り難く、うまい。

 この世界には、自分より遥か以前からずっと続いてきていて自分の理解認識では届かないものがたくさんある。そのように理解認識では届かないのに、心の深いところが呼応するものがある。太い線ではなく、なぜか細い線でつながって呼応する。そのかけがえのなさに触れた時、しみじみとさみしくて、しみじみとうまいという感じになる。

 明確な太い線ではなく、か細い線が、ずっと続くことが永遠なのではないだろうか。

 切れそうで切れない何か。そして、明確な太い線で自分で囲えない何か。自分で囲えないからといって、手を引っ込めるのではなく、手を伸ばし続ける何か。手を伸ばしているのにかかわらず、明確な線によって自分で囲えないからこそ、自分の手によって貶められることもなく、またさらに手を伸ばしたいとも思い続け、お互いが、濁り水のように混じり合うことなく、それまで在ったように、これからも在り続ける。そうした物との関係こそが、かけがえのないものなのだろう。

 本当にうまい食べ物というのが、そのようにかけがえなく、だからこそ、しみじみとうまく、しみじみとさみしいように、人間関係もまた同じなのだろう。

 そういう状態を得ることもまた、細いピアノ線をたぐるようなもので、なかなか得難い。人生における大半の時間は、汚い手で線囲みして、濁らしてしまうところが多い。だからこそ、奇跡の瞬間に心が痺れる。そして、その瞬間が得難いからこそ、しみじみとうまく、しみじみとさみしい。永遠との出会いは、そうしたものかもしれない。