死が無ければ、生も無い

 周到に準備を重ねてやっていても、あと一歩のところでうまくいかなかったり、努力が報われそうもないと諦め開きなおっていると、土壇場で好転したりすることがある。そういう時、よく思い浮かべるのが、アフリカのサバンナで肉食獣が草食獣を襲う時のこと。逃げるインパラと追いかけるライオンが、いつもギリギリのところで逃げられたり、追いついたりする。
 そういうギリギリの攻防でない関係なら、とっくの昔にどちらかが死に絶えてしまい、その結果、もう一方の生存に支障が出ることになる。だからけっきょく、最終的に残っているものは、ギリギリの生存ライン上にいるもの同士ということになる。
 昔から火事場の糞力とよく言われるが、人間に限らずどんな生物でも、追い込まれた状態になると、自分でも思わぬ力が発揮できることもある。その必死がないと、自分の潜在的な力に気付くことがないまま、一生を終えてしまうかもしれない。

 2011年3月11日の大震災の後、風の旅人を六冊制作した。第43号の「空即是色」、第44号の「まほろば」を制作後、約1年と二ヶ月ほど休刊し、2012年12月に復刊第1号(第45号)の「修羅」、そして「コドモノクニ」、「妣の国へ」と続き、この6月に発行する「死の力」。この一連の流れは、3.11の大震災を強く意識したものだった。思えば、2003年4月に第1号を発行した時は、2001年9月11日に起こったアメリカ合衆国のテロ事件が意識されていた。
 一人のちっぽけな人間がどうにかできる問題ではないかもしれないが、この二つの大きな出来事を、自分の中でどう位置づけるかという途方もないテーマを自分自身に課し、逃げるインパラを追うライオンのように、また逆に、追いすがるライオンから逃げるインパラのように必死に取り組んでいると、自分でも予測していなかった展開になっていく。
 先のことを考えることは大事なことだが、考えすぎてもしかたがない。向こうに見える角を曲がった先にある風景は、ここから見えない。だからまずは、必死になって、あの角まで辿り着くしかない。
 風の旅人の一〇年間の風景は、そのように、まずはあの角までという思いが、連綿と連なってきたものだ。

 ちょうど21世紀の最初にあたるこの10年前後を、数十年後に振り返ると、いったいどういう風に見えるのだろう。
 100年前に遡り、20世紀の最初の10年間には、何が起こり、それが20世紀にどのような影響を与えたのか。
 例えば、「量子力学」と、「相対性理論」という20世紀を代表する新しい物理学が、その時、まさに始まろうとしていた。
 18世紀半ばから19世紀にかけて起こった産業革命の中から、蒸気機関、電気、磁気の利用が発達し、熱力学と電磁気学が生まれ、古典物理学が完成した。そして、20世紀は、「量子力学」や「相対性理論」から、原子力エネルギーやコンピューター化された社会が出現し、さらにインターネットで世界が結ばれ智慧の共有が急速に進むとともに、ロボット技術や生命科学が著しく発達し、今、21世紀の新たな時間が刻まれている。
 多くの人がこうした大きな変化を感じながらも、人生や生活におけるビジョンや、政治思想は、旧態依然のままという状況にある。
 アベノミクスが掲げる経済優先の政策も、円安誘導によって輸出産業を後押しし、国内においては、家電製品をはじめとする消費財の購入促進を促すこと。つまり、「海外に、電気製品や車をどんどん売っていきましょう、そして、デパート等で、どんどんと物を買ってください、とりわけ贅沢品、高級品の消費を増やしましょう、そうしたら経済が活性化します。それが国の豊かさです、国民の幸福です」という、50年前のスローガンと、まったく変わってないものだ。
 おそらく、10代〜30代といった新しい世代で、そういう旧い考え方をする人は、少なくなっていると思われる。40代、50代以上で、未だに社会的に力のあるポジションにいる人たちが、思考や感性を硬直させ、既成の概念の枠組みにとどまってしまい、それゆえ、社会の構造が、なかなか変わっていかないのかもしれない。
 21世紀になり、既に14年も歳月が経過した。このまま、今の状況が続くとは思えない。あと10年ほどで、バブル崩壊後に生まれた人達が社会の主要なポジションにつくようになった時、人生観や幸福観が今とは異なった社会が出現するのだろうか。
 相変わらず贅沢品をたくさん購入する事が豊かで幸福であると、人々が信じ込んでいるだろうか。
 社会ではなく自分のことを想定しても、これから10年か20年後、自分が間もなく死ぬだろうという時に、贅沢品や消費財と、自分の幸福観が結びついているとは到底考えられない。
 ならば、その時、いったい何を思っているのか。自分の人生のどの瞬間の、どんなことを幸福だったと感じながら、死んでいくのか。そうした視点から、現在の自分を俯瞰することは、未来から現在に向かって生きていくことだと言える。
 20世紀までは、人は、現在から未来に向かって生きていくのが当たり前の感覚だった。しかし、これからは、未来から現在に向かって生きていくことが、当たり前の感覚になっていくかもしれない。
 6月に発行する次号の「風の旅人」のロングインタビューで、石牟礼道子さんが、「本当はみんな、やがて死ぬってことを知っている。人間は死があるから生きられる」と語っている。
 もしも死がなくて、生がダラダラと続いていくだけであったら、この生のかけがえなさは、どうなってしまうのか。
 かけがえないものであるからこそ豊かであると感じられる。物の少ない時代、物と豊かさは結びついた。しかし、物に対してかけがえのなさを感じなくなってしまえば、物は豊かさと結びつかない。 
 20世紀の物質文明の呪縛から解き放たれればわかることだが、誰にとってもかけがえのないものは、やがて死ぬことが定められた、限られた命であるはず。人生のどの瞬間も最初にして最後のもの。そのかけがえのなさを、どれだけ自覚して生きていくことができるか。20世紀が唯物論の時代だとすると、21世紀は、どの命も唯一無二で、命のどの瞬間も最初で最後であるという自覚を世界認識の基礎にする「唯命論」の時代になるのではないかと、私は、夢想している。

 たとえ事がうまく運ばなくても、獲物を獲り損ねたライオンのように後に引きずることなく、あくびなんぞをしながらゴロリと横になって、それでも次のチャンスの到来には敏感なアンテナを維持したまま、”しばし待機するしかない”、と開き直れる状態は、多くの物に囲まれながらも、目の前の成果ばかり求められてプレッシャーを受け続けている状態より、はるかに幸福かもしれない。


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