対話の固有性が損なわれている

 マスメディアに限らず、ネット上のブログや掲示板の書き込みなどでもそうだし、写真の売り込みや履歴書などにおいても、広告会社が相手かまわず使いまわしをする企画書のように、誰に向けられているのかさっぱりわからないという状況が、今日の情報伝達の一つの癖だと私は思う。

 「国民に向けて」とか、「広く一般の人々に向けて」など、対象となる人々の顔がよくわからない。相手がどういう人か関係なく、また相手と何をどうしたいのか関係なく、「私はこう思います」とだけ言い放って、通りすぎる。評論家の多くもそんな感じだ。

 ワープロで打った志望動機なども、宛先を変えて他の会社にも出せそうなものを平気で送りつけつけてくる人も多いし、写真の売り込みでも、他誌に掲載された写真の切り抜きを送ってくる人もいる。そうした態度には、「風の旅人」だからこそという思いはあまり感じられず、こちらも心が動かされることはない。つまり、対話が成り立っていないのだ。

 紙媒体やネット上では、そうしたことが平然と行われてしまうが、たとえば、道ばたでAさんとBさんが何かを対話していて、そのAさんとBさんの関係や、そこでかわされている対話のバックグラウンドを知らないCさんがそこに割って入って、「通りすがりの者ですが、自分はこう思いますよ」なんてことをしたりしないだろう。

 もしも自分の顔を晒す必要がなければ、それができるかもしれないが、顔を晒す場合は、やはり恥ずかしいものがある。

 顔と顔を突き合わせれば、人間には恥の概念が生じる。その恥の概念は、自分を省みることでもあるから、とても大事なことのように思う。

 情報伝達に限らず、物を作る場合も、その物を誰が使うかきっちりとイメージせずに、広く一般的なニーズなどと言って作ったり、自分の作りたい物を作るだけ、というスタンスも多い。生活の中でもっとも重要な家にしても、最近、その種の作り手が多いように思う。

 広く一般的に成り立つ法則に基づいてモノゴトを作ったり、情報発信するというのは、知らず知らず、科学的な思考特性の影響を受けていることではないかと私は思う。

 一般的傾向を最大公約数ではかり、モノゴトを推進してきた結果として、広く一般的に便利な状況ができあがってきたことは事実だ。教育などにおいても、全ての生徒に、最大公約数的に必要だと思われることを同時に詰め込んで覚えさせる方が効率が良いし、多くの人が同じ限定された情報を共有することで、ルールも作りやすく、そのルールを共有しやすくなる。それが、現代社会だ。そして、この現代社会の諸問題を、最大公約数的に取り出して分析したり批判したりすることも、実は、同じ現代社会のバイアスのなかにある。

 「現代社会」で問題があるのは、この社会が上に述べたような思考的メカニズムによって作られてきたということを忘れて、その上に胡座をかいてしまったり、一般論の文明批判をしてしまうことだろう。

 「現代社会」は、「広く一般的に成り立つこと」が大事だとされている。だから、最初から、個の特殊性は軽視されている。学校などにおいても、たまたま先生であるAさんと、たまたま生徒であるBさんの人間関係ではなく、「先生」としての決められた条件をクリアした「先生」と、「生徒」としての決められた条件をクリアした「生徒」の関係になる。そして、広く一般的に決められた条件をクリアするためには、人それぞれの解釈基準にバラツキがあってはならないということで、「テスト」に合格するかどうかということになる。その「テスト」も、採点する側の解釈基準にバラツキがあるのは望ましくないということで、○×式か、解答の選択式になりやすい。

 そのようにして、「現代社会」は、どんどん基準が画一化されていく。基準が画一化されることで、ルールも単純化され、足並みも揃い、規格統一がなされ、技術革新の速度もあがる。

 今日の産業社会の在り方と、学校教育の在り方は、根底でつながっていて、どちらか一方だけを批判しても意味がない。

 産業社会や学校教育の在り方だけならばいいのだが、人間関係もまたそのようになりがちなところに、様々な歪みが生じる原因が隠されているように私は思う。友人関係などにおいても、個と個の間だけに生じる特有な機微が排除され、集団の中で最大公約数的に共有する「情報」に従うことで関係が成り立つというように。

 しかし、実際の人間を作っているのは、それぞれの人の足跡の中で、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など様々な感覚機能を通じて体内に取り込まれた「記憶」と、その人ならではの志向性から生じる未来への「願望」の組み合わせだ。複雑な記憶と曖昧な未来の組み合わせは、他の人にはない自分だけのものであり、最大公約数で割り切れるものではない。

 しかし、その複雑で曖昧な領域の部分で、人と向き合ったり付き合ったりできなくなると、集団の中にいても、のびのびと呼吸ができない。自分の中の多くの部分を殺して生きていかなければならないから。

 もちろん、生活に便利な部分と人間関係の部分を切り離してやっていければいいのだけど、人間関係の部分(特に「対話」の部分)で、果たしてそのような訓練が充分にできているかどうかが問題だ。今日の学校や家庭の在り方は、一般的傾向を追うあまり、「その人ならではの心からの対話」には無頓着のことが多いから。

 対話に自信がない。対話の方法がわからない。だから、言うに言われぬ思いを抱えたまま、外の状況の成り行きに自分を合わせていくしかないということもあるだろう。

 私は、上に述べたように、現代社会のなかで、「広く一般的に成り立つこと」を重視するあまりに「個」を見失いがちな癖が、現代社会の思考特性の大きな部分を占めていて、「科学」というのは、そうした傾向を推進してきたのだと考えている。

 物質的に外に現れている世界よりも、人間の思考特性や行動特性に与えた影響から、私は「科学」を見ていて、その思考特性や行動特性から生じる「対話」のフォームそのものを、根底から考え直さなければならないのではないかとも思っている。

 「風の旅人」も、「編集便り」も、私にとって、「対話」のフォームづくりと言えるかもしれない。

 「風の旅人」は、最初から広く一般的なところに向けられているのではない。道行く人の千人に一人としっかりと向き合うことができさえすればいいのだという発想で作られている。千人全てと表層的につながることより、千人に一人でいいから、根の深い部分でつながることの方が大事だと思っている。そして、千人に一人を発見し、確実につながることができれば、千人全体をアバウトに意識して作る物より、結果的に上手く運営ができるのだということを実証しなければならないと思っている。出版物にかぎらないが、「こういう時代だからしかたがない」などと言い訳して作られる物が、あまりにも多いから。

 同時に、「風の旅人」とまったく別世界に住んでいる999人も、実態のよくわからない999人を相手に、広く一般的に分析して表層的に付き合うのではなく、それぞれに固有の千人に一人と根の深い部分でつながっていくことを、もう少し大切にしてもいいのになあと思っている。

 さらに言うならば、現代社会に適応させるために、生徒に対して、「広く一般的に成り立つこと」を強要せざるを得ない学校機関によって歪んでいく教育について、「学校が悪い!!」などとアバウトに一般的に批判するのではなく、何がどう問題なのか、自分ごととして考え、構造的に根深い問題があるゆえに簡単にそれが改善されないと悟ること。そのうえで、自分の子供の「対話」や「思考」の訓練などを学校教育という一般論の世界に押しつけるのではなく、千人どころではなく億万人に一人の、自分が対話すべき相手として向き合い、一般論ではなく、その相手に相応しい言葉を選択し投げかけるということを、大人である自分も訓練していく必要性があるのではないかと思う。

 そうした一人一人に固有の根気のある努力を抜きにして、社会全体が重視してしまう「一般論」に歪められていく一人一人の関係や対話を修復することは難しいのではないかと思う。


風の旅人 (Vol.20(2006))

風の旅人 (Vol.20(2006))

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