科学が未来を作るのではない

 科学技術は、未来を作り出しているように思われているが、実際には、未来を奪っているのではないだろうか。

 科学技術は、人間の実際の生活に役立つものを作り出しているかのように言われる。でも、それは、あくまでも今一瞬の便利さと解決に関してであり、少し長い目で見れば、決してそうでないことがわかる。むしろ、今一瞬の便利さと解決が、後の不便や苦しみにつながることは多い。便利なことに頼りすぎて、自分では何一つできなくなることが多いのだから・・・・。

 そもそも科学というのは、私たちが生きるこの世界を、人間の解釈可能なものにする努力のことを言うのではないかと思う。

 解釈というのは、人間の意識で行うものだから、科学というのは、世界を人間の意識の範疇に閉じこめること。意識できる範疇が世界で、意識できない範疇は世界ではない。「科学の恩恵で世界が広がった」という言い方は、世界そのものが広がったということではなく、人間が意識できる範疇が広がったということにすぎないだろう。

 意識できる範疇が広い状態=世界の広さという認識は、意識の領域だけを重視している人の言い分であり、無意識の領域の広がりを世界そのものだと感じている人は、まったく違う尺度の広大深遠な世界に生きている。

 世界中を観光旅行したり、様々な書物から知識を摂取する現代人が、自分の生まれた土地の神話的世界の中で生きている人たちのことを「世界が狭い」と嘲笑ったり同情しても意味がない。見て知って意識できる範疇が広がっても、その見識がその人自身の生き方に深く関わってこなければ、それは単に記号的な情報処理を行ったにすぎず、その人自身の世界が広がったわけではない。そして、記号的情報の数が多いか少ないかということであれば、学問の専門用語や他国の地名と、身の回りの昆虫や草花の名称とでは優劣はない。学問的専門用語や、いろいろな国のことをたくさん知っている人が賢いなどというのは、大いなる錯覚なのだ。

 情報の数や量の比較ではなく、自分の生き方に深く関わりを持っていると実感できる情報が豊富な方が、世界が広いということになると私は思う。

 そして、けっきょくのところ、そのように自分にとってリアルな情報の方が、長い目で自分の人生にとって実際的であることが多い。

 科学的知識の多くは、実際に役立つのだと説得しやすい論理的情報であるけれど、その情報を受け取る側は、無意識のなかで、しっくりこないというわだかまりが残ることも多い。にもかかわらず、そのしっくりとこない感覚を論理的に説明しにくいがゆえに、相手も自分自身も説得できず、しぶしぶ従わされる性質があるように思う。

 そして、しっくりこないという感覚に目をつむれてしまう人の方が、論理を全面に押しだす論理的ゲームに耽溺できるものだから、表面的には、「賢い」などと思われてしまう。

 しかし、その瞬間の「論理」で、その人を賢いとかそうでないと決めたところで何にもならない。

 「論理」ではなく、「生き方」が大事だろう。賢く実際的な生き方を敢えて定義するのなら、長期的に破綻しない生き方ということにならないだろうか。

 その長期的にという意味のなかには、自分自身だけでなく、自分とつながっていく全てのモノゴトとの関係性が含まれる。

 そうした全体とのバランスを、果たして、「意識」と「論理」を主体にした科学的に統率できるのかどうか。

 この件について私は疑問に思っている。

 なぜなら、「意識」というのは、氷山で言うならば、海面上に出ている僅かな部分であって、水中には、その何倍もの巨大な氷塊が沈んでいるからだ。

 賢い航海士は、海の上の氷を見るだけでなく、水中の氷塊の広がりを読んで、進路を決める。

 この問題について、科学の考え方は、レーダーを作り、レーダーによって水中の氷を探り当て、それを人間が意識できる状態に表示し、それに従って進路を取るようにすれば、経験に関係なく、誰しも、賢明な進路を取れるようになり、それが万人の幸福につながるという考えだ。

 この考え方は説得力があるし、実際に、現代人はその恩恵を受けている。しかし、レーダーで氷を探り当てて進路を取る行為は、この瞬間の現実をクリアするうえでの安心につながるかもしれないが、状況を読みとる経験が養われていかない。レーダーが壊れた瞬間、何もできない自分が残るわけで、その得体の知れない不安に目をつむることによって成り立つ安心にすぎないだろう。

 「経験」というのは、自分が意識できていることをなぞることではなく、自分が意識していなかった出来事に遭遇することで、モノゴトやそれを司る世界の奥行きや幅を感じ取り、それにどう対応すべきか、身体的に記憶していくことだろう。その記憶の一部は意識の中に止め置かれるが、その大半は、無意識の中に蓄積されていく。

 この世には、勘が働く人というのがいるが、その力は、単なる気まぐれな直観ではなく、無意識の中に蓄えられている記憶が膨大で、その記憶と呼応することが「直観」という現象になるのではないかと私は思う。

 無意識の記憶が膨大であればあるほど、論理的な圧力の前に、しっくりこないという感覚が生じる。企業の創業者が、企業経営の経験のない経営評論家の理論を聞いても、企業経営とはそういうものではないと直感的にわかるように。

 そうした直感力は、生きていくうえで大切なセンサーだ。このセンサーに自信を持てないと、実生活の現場に自分を投じることが恐ろしく不安になる。

 不安が強いために、そういうこととは無縁の場所で、「論理」だけを振りかざしたり、自分の「論理」で説明できるものだけに囲まれていたくなる。経営評論家の多くが、自分で会社を作る自信がないように。

 それに比べて、無意識の記憶が誘導する方向に生きていくことを自ずから選択できる人は、論理で説明できないこととの出会いこそが面白いと感じる。実生活の様々な困難なども、自分の無意識のセンサーで自然と対応しているうちに、ある瞬間、自分の行っていることが明瞭に意識できるようになり、自分の能力が知らず知らず向上していることを自覚できることもある。

 つまり、無意識を自然と形にしていくことによって、モノゴトは予め誰かに論理的に決められてしまっているのではなく、自分次第でどうにでもなるという手応えを獲得していくことになるのだ。

 自分次第で世界はどうにでもなるという状態は、自分で未来を作れる可能性があるということだ。人間にとって、本当の自信というのは、そういうものだろう。

 それに比べて、科学的判断というのは、「未来は、自分自身の手でどうにでもなる」という非論理的な判断を嫌う。つまりそれは、未来をも、現代の解釈のなかに閉じこめて処理する行為なのだ。現代社会に蔓延する「価値観」に添って、子どもの進路を決めつけていくように。それが合理的で実際的だと今日的な論理で言いくるめながら。

 でも、実際には、20年後、30年後の世界は誰にもわからない。現在の人気職種が、20年後もそうであったためしがない。

 「未来」を現代の解釈のなかで理解しようとするスタンスには、常に「現代」があるだけで、本当の未来はない。

 「未来は、自分次第でなんとかなるだろう」という、論理的には説明できなくても、自分の無意識のなかに備わっている確かな感覚にこそ、「未来」は宿るものではないかと思う。

 そして、科学というのは、未来を作ってきたのではなく、現代を異常な勢いで再生産し、ミクロからマクロまで拡大してきただけではないかと私は思う。

 観測者によって、素粒子の振るまいが変わるということを科学が突き止めているが、その事実を科学的に表示することの意味は、科学の力を盲信する人に意味があっても、それ以外の人にとっては、経験的に当たり前のことなのかもしれない。

 


風の旅人 (Vol.20(2006))

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