OWN LIFE

 お陰様で、「風の旅人」、Vol.23(12/1発行)の構想が整った。

 テーマは、「OWN LIFE」。その趣旨は、下記のようなものだ。

「自分の現実、自分が触れられる現実、自分が自分で責任をもっていく現実、自分に特有の現実、自分が触れる現実には、誇らしく、頼もしく、愛しく、切なく思うモノゴトがある。それらのモノゴトと自分には大切な関係性がある。たとえ他人にはわからなくても、自分には大切な関係性がある現実。自分の現実は、常に流動的で、同じところに留まっていない。自分がどこから来て、今どこにいて、どこへ行くのか、他人よりも自分と、もしかしたら肉親だけが、一番よくわかっている。他人にとって正しいことが、自分にとってそうだとは決まらない。関係性のない人が、立ち入ってはいけない。人はみな自分が触れられる現実のなかで呼吸をして、なるべくしてなる方向を模索しながら、右や左に動いたり、じっと立ち止まったりしている。それが、自分の現実。」

 紹介するのは、「富士山の麓の生活」、「里山」、「国東半島」、「生まれたばかりの赤ん坊〜幼年時代」、「野良猫」、「家族と友人」など。

 この8/1に発行する21号で、私は、先の大戦をはじめとする事象を取り上げている。

 単純に戦争批判を目的としているのではなく、1945年に時計をリセットしたいと思ったからだ。あの大戦で、近代西欧の思考特性の様々な矛盾が噴出した。にもかかわらず、その後、日本は、学問的に細部の修正は多少あるのかもしれないが、生活部分の幹線道路部分においては、その思考特性をただ繰り返してきているような感覚がある。それが、私たちの日常の表層に堆積している。

 その表層に堆積しているものは、いったい何なのか。私は、それを一種のインテリ的傾向だと思っている。「インテリ」というのは、特定の人物を指すのではないし、頭がいい人全般を指すわけでもない。頭で世界観を構築しがちで、実際の「物」とか「身体」に触れたところ(空気も含む)で動こうとしない、今日の私たち全ての人間が潜在的にもっている一種の傾向のことだ。

 「物」や「身体」に触れるところでの感覚は、言うに言われぬものだから、ロジックになりにくい。それゆえ、モノゴトが判断され、決定する局面においてロジックが優先される世界では、重要視されないことが多い。

 高速道路を作るために樹木や神社の裏山が削られる時、そこに住む人が何となく不吉だなあと肌感覚で感じても、それはロジックにできない。そのため、高速道路に関する反対意見は、「予算」か「自然環境の破壊によるデメリット」のような、ロジックの展開になる。そうすると、賛成派は、「経済メリット」を持ち出し、「科学的に影響のないこと」を証明して説得しようとする。そうした同じ土俵での攻防が繰り返され、何か大切なことが置き去りにされる。その大切なことは、長い間、肌感覚として大切にしてきた微妙でデリケートな繋がりが強引な力で断ち切られて排除されることの言うに言われぬ気持ち悪さだ。

 日本人は、もともとそういうデリケートな関係性をとても大切にしていた。その言うに言われぬ部分に、強引に「論理的産物」が入ってきた。一時的には論理の力は強く、相手を屈服させる力を持つ。しかし、長期的に、論理が強かったためしはない。長く愛着を持って使われる物は、論理で固めたものではなく、言うに言われぬ味わいのあるものだから。

 しかし、戦後の日本は、長期ではなく短期の視点でモノゴトが推進されてきた。だから、論理は、日本国中を侵攻していく。

 「論理的産物」が増長し、「論理」によって「役に立たないもの」や「言うに言われぬもの」を切り捨てて、排除していく。排除する側は、物や人や異なる意見を排除しながら、自分の精神の一部を排除していることに気づかない。自分で自分を損なっていることに気づかない。言うに言われぬものに価値を置けなくなり、それを感じ取ることができなくなっている自分に気づかない。 

 それは、いわゆる職種としてのインテリのことだけではなく、われわれ全ての「論理」を覚えた人間が陥りやすいところなのだ。

 もちろん、「論理」の全てが悪いというのではなく、肌感覚を強引に従属させるような「論理」が多いのが問題だと思うのだ。肌感覚を下支えするような「論理」がもっとあっていいはずなのだが。

 肌感覚に従ってアンテナを張り、言うに言われぬ状態を保ちながら、生きて付き合っていくこと。それが、生物として自分を損なわない大事なことだと私は思う。

 コメントにも書いたけれど、モノを観察して頭で考えることも大事なことだが、人間は、自らの時間の大半を、触覚に従って生きている。持ったり食べたり歩いたり座ったり、眠っている時でさえ、触覚は働いている。知らず知らず、人間は触覚を通して世界を理解している。だから、なぜその人を好きになりましたか?と聞かれて、「肌が合うから」と触覚を優先して答える人が多い。その答えを、頭のいい人は、論理的でないと憤慨するかもしれないけれど、「肌が合うから」というのは、論理以上に、真理かもしれない。

 だから考えを改めることよりも、肌感覚に変化が生じることの方が、生き方が変わるかもしれない。肌感覚は世界との直接の接点だから、そこが鈍感になるのは生物として危険なような気がする。

 口に入れた悪い物を、認知して分析して吐き出していたら手遅れだ。だから、気持ち悪さに敏感でなければならない。

 昔の日本人は、そのことがよくわかっていた。

 そして、元々、私たちが備えていた肌感覚を露出させるためには、近代以降、とりわけ1945年以降、表層に急速に堆積してきたものを剥がさなければならないと私は思っている。

 表層を引き剥がしたところに、私たちが本当に大切にすべきものが何であるか現れてくるのではないか。そう意図を明確にもって、私は、「風の旅人」を作っている。

 原理的な世界観だけが、唯一の世界観ではない。人それぞれに特有の世界観があっていい筈なのだ。

 現在、書店に出ている「風の旅人」の第20号は、その序章であり、第21号(8/1発行)の「LIFE AND BEYOND」で、上に述べたように、1945年に時計をリセットし直す。そして、第22号(10/1発行)で、「SIGN OF LIFE」と題し、日本人が今日でも潜在的にもっている世界観がどういうものなのか、伊勢神宮と、西欧文明に侵食されるばかりに見える今日の東京の別の側面を通して、見せていきたいと思う。

 そして、第23号では、今日の表層の全てを引き剥がして裸になり、還る場所。風土や生活環境や肌感覚に基づいて、その中での関係性を大切にする「OWN LIFE」というものを見せていきたいと思う。


風の旅人 (Vol.20(2006))

風の旅人 (Vol.20(2006))

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