ブログと、相対的な視点

 7/16の科学に関する話し合いのなかで、 私の書くことが、「相対主義者の論法の典型例」と批判された。

 しかし、もともと私はこのブログで、相対的なモノの見方を書いている。つまり、世界は関係性で成り立っていて、その関係性は常に流動的であると。流動的であるからといって無秩序なのではなく、流動性の向こうにある秩序とか摂理を求めたいという衝動の中で、私はブログを書き、「風の旅人」を制作している。

 だから、その私のテリトリーの中で、「あなたは典型的な相対主義者だ!!」と言われても、典型的かどうかはわからないが、それで何が悪いのですか、なにゆえに原理的な思考を強要される必要があるのですか、ということになってしまう。

 私がこのブログで「極端な凡庸さを抽出して攻撃している」という趣旨のコメントもいただいているが、相対主義者の立場からすれば、凡庸の基準は人それぞれでしょうということになる。凡庸かそうでないかと決めたたがる発想じたいが、とても原理主義的なものなのだ。

 でも、凡庸かそうでないか誰も決める権利などない。凡庸かそうでないか判定する機関としての有識者の集まりや賞などを設定するのは、巨大メディアが得意とするところだが、そのように権威づけてモノゴトを裁定する傾向じたいを、私は批判している。

 巨大メディアは、凡庸か否かを決定する主導権を自分の側に置いておきたい。巨大メディアが運営する賞の権威が高まることで、自らの権威を高めたいと考える。だから、賞の選考委員を決める際に、その人が作る作品の内容よりも、肩書きが重視されているように感じることが多い。なんとか美術館館長とか。

 私が、ブログなどでごく稀に批判するのは、西洋科学であり、巨大メディアであり、原理的な思考と権威が結びつけられていると感じる際に限定される。

 個人を批判したのは、杉本博司氏と浅田彰の時であるけれど、それは、「写真の終わり」を、メディアとともに大々的に騒いでいたので、写真に関わる仕事を行っている者として、「そうとはかぎらないでしょ」というスタンスで異論を述べた。

 批判する資格があるかどうかなどと問われることじたいが、原理的な発想であり、相対的な立場に立てば、それは誰にでも可能なことだ。

話しは変わるが、アメリカとイラクの問題を考えてみたい。

 イラク国内で、イラク人がアメリカのことを名指しで批判する自由は、アメリカから見てそれが凡庸であろうがなかろうが、尊重されるべきことだろう。

 批判されたからといって、領域を侵されたと憤慨して、イラクの中に入り、「きみの考え方は間違っている。それを正しなさい」と強要するスタンス。自分の信じる世界観が全てのものに普遍的に共有されなければならないという発想で、近年の「グローバルスタンダード」の推進があったが、この発想自体が、とても原理主義的なものでないかと私は思っている。

 それに対して、アメリカは、「いや強要しているのではない。正しく導いているのだ」と主張するかもしれない。でも、その発想自体もまた、正しい答えを原理的に設定したうえでの思考ということになる。こうした思考は、アメリカに限らず、中世のキリスト教の宣教師にも感じられるし、一部の西洋科学者や巨大メディアにも感じられる。原理的にモノゴトを考えてしまうという同じ線が、そこに通っているように思うのだ。

 もちろん私たちは、そうした教育を受けてしまっているので、なかなか、この思考の癖を抜け出すことができない。そして、そうした教育の思考方法に優れた人が、競争に勝ち、今日の日本社会のインテリ層を占めている。巨大メディアや研究機関などは、その競争の勝ち組みが入社することが多く、そういう機関が社会のイニシアチブを握っていくわけだから、社会は益々、原理主義的な傾向に陥りやすいのではないかと思う。

 しかし、モノゴトは関係性によって成り立ち、その関係性は流動的であるという立場に立てば、そのような原理主義主導の世界も、やがて様々な歪みに直面しながら修正されていくことになるだろうと、長期的には楽観的に感じることができる。それだけの時間があれば・・・。

 ここでブログのことについて考えてみる。

 ブログによるネットワークの増殖に一番嫌悪感と警戒感を抱いているのは、巨大メディアかもしれない。既存メディアから見て「単なる私的な印象論」や、「発言の適切さに無頓着な言論」がまかり通ってしまうと、それまで自分たちが築いてきた権威が無化されてしまう。

 「言論の自由」を主張して自分の権益を守りたい巨大メディアが、「極端に凡庸な事例を下敷きにして攻撃する今日の言論」を批判するのは、巨大メディアが陥っているジレンマを表している。

 でも当人達は気づいていないかもしれないが、この論法は、とても狡く、人を見下すようなものがある。なぜなら、「凡庸でないものが、言論の自由を確保できる。バカは黙っておけ」と言いかえることができるからだ。そこまで言わなくても、「極端な凡庸な事例を下敷きにして・・・・」と述べるこの論説じたいが、未来の言論の在り方を考える上でとても凡庸かもしれないのに、その判断を誰が行うのかという問題が棚上げにされている。自分が選ぶものは凡庸でないと考えているとしたら、それこそ傲慢な態度だろう。

 ブログというものは、凡庸であろうがなかろうが構わない、というのが、私のスタンスだ。

 7/16のコメントで、「私も旅人」さんが今日のブログ的あり方に対する問題提起として紹介してくれた双風亭さんのブログ記事http://d.hatena.ne.jp/lelele/20060716 を覗いてみた。

 双風亭さんが、ブログに飽きた理由(・忙しくて更新する時間がとれない。・うざいコメントにいちいち答えるのがめんどう。・そもそも、ブログをやりはじめたときには新鮮に感じたものが、いまはなくなってしまい、書くモチベーションがなくなってきたこと。

・ひんぱんに更新すればするほど、次に書くネタがなくなっていくこと。)を述べ、今後、ブログを利用するのは、自分のことをアピールしたい俺様系の人とかの独断場(というか、そういう人たちだけが最後に残る場)になってしまったりはしまうのではないか、営業的に利用している法人や個人については、いつまでも有効なツールとして残っていくだろうけど、という趣旨のことを書いている。

しかし、私が思うに、無理矢理、ブログは続ける必要もないし、必要な時だけ書けばいいことであり、コメントに応えるのが面倒であればコメント欄を閉鎖すればいいし、もっと自由であっていいものだろう。

 なぜなら、ブログは、何か特別な意義とか意味を狙いにするものでないからだ。特別な意味とか意義を考えてしまうと、書いていることが空しくなったり、営業用と割り切った方がいいのではないか、ということになる。

 私は、ブログには、特別で特定の意味や意義はないと考える。そうした原理的な思考に基づいて書かれるのではなく、あくまでも相対的な存在だ。

 そのブログに他者がつながった時、それがポジティブであれネガティブであれ、何かしらの働きかけによって関係が生じる。つながらなければ関係は生じない。そして、その呼応関係は常に流動的で、常に変化していく。そして、動きが止まることもあれば、また動き出すこともある。

 それはまるで、銀河になる以前の星雲のなかのガスや塵の動きのようなものだ。引力や反発力によって、形が変わっていき、次の銀河のような秩序的世界へと移行していくのだ。

 原理主義の立場から宇宙を見ると、どうしても秩序的な銀河に目が行きやすい。しかし、宇宙の実態は、銀河だけで構成されるのではなく、ガスや塵など、一見ランダムで凡庸に見える運動体が無数に集まって、常に相対的で流動的な関係を作り続けている。作られては壊れ、壊れてはまた作られ・・・・。

 ブログは、銀河である必要などない。無数のガスや塵のように漂い、ガスや塵が呼応し合い、関係が生じたり消えたりしながら、その流動的な試行錯誤の向こうにある新たな秩序的な形を目指す運動なのである、というのが、私なりのブログの定義と言っていいかもしれない。

 だから、このブログに入って、いくら原理的な思考で論争を仕掛けられても、私はスルリと相対的な思考で応えるだけなのであって、原理と原理が衝突して戦争が起こり、火を噴くことにならない。

 原理的に正しいことを追求する人は苦々しく思うだろうが、国家と国家の関係も、原理と原理の衝突になってしまうと埒があかない。原理で攻め立てられる時には、相対的にかわしながら姿勢を崩さず、先の展開を読んで応じ、相手の動きを制するスタンスの方がいいのだ。


風の旅人 (Vol.20(2006))

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