(熱海 来宮神社)
一昨日のエントリーで伊豆の来宮(キノミヤ)神社と海人と縄文時代の関係について書き、さらにキノミヤ信仰が鹿島踊りと関わりが深いと述べたが、「鹿島」は、茨城の鹿島だけでなく、海人と関わりの深いところに地名が残っている。
たとえば、長野の安曇野周辺は、海人の安曇氏の拠点だったところとして知られているが、ここに鹿島川が流れている。
北アルプスを源流とする鹿島川は、南に下って鹿島扇状地となり大町市で犀川と合流するが、その合流点から20km南、犀川が高瀬川と合流するところに安曇氏とつながりの深い穂高神社がある。
また、鹿島川から山を隔てて4kmのところに青木湖があるが、ここは、映画、犬神家の一族で、「湖面から逆さに突き出す両足」が撮影された場所である。長野県内では諏訪湖・野尻湖についで3番目に大きく、透明度が水深58mと長野県で一番の湖だが、流入河川が無いにもかかわらず水位が維持されており、湖底にかなりの量の湧水があると考えられている。また、湖底をはじめ周辺には水晶が多いことが知られている。
そして、このあたりの湧水が姫川の源流である。新潟の姫川は、日本列島を東西に分かつ糸魚川・静岡構造線に沿って流れているが、ヒスイの産地として知られ、ここのヒスイが、縄文時代、日本各地に流通していた。
北九州の霊山、英彦山の北山麓の後遺跡(福岡県田川郡添田町)や、青森の三内丸山遺跡から新潟県姫川産のヒスイの大珠が出土している。北海道、東北、茨城県、沖縄でも見つかっており、姫川産のヒスイの分布は、縄文時代に、かなり広範囲に流通していた。
ヒスイは、日本で産出する岩石の中でも最高度の「硬さ」を誇る宝石で、それを加工し、製品化するには労力と技術を要する。そして製作途中の未完成品が出土する地域は全国でも数箇所に限られているので、石の産地と、それを加工、製作する人々が住む地域と、その完成品を欲する地域が、海上ネットワークで結ばれていたと考えられる。
鹿島神宮の鹿島は、鹿の島のことであり、そのルーツは北九州の志賀(しか)島で、志賀島は、安曇氏の拠点である。
海洋民族の安曇氏は、弥生時代の曙において、稲作文化を中国南部から日本に伝えるうえで大きな役割を果たしたとされるが、新潟産のヒスイが、北九州や、茨城の縄文遺跡からも発見されていて、それらの地に鹿島=志賀の島の名が残されていることから、安曇氏という名が歴史に登場する以前、縄文時代に遡る海人ネットッワークが、それらの地を結んでいた可能性が高い。
鹿は海を群れて渡ることから、古代より海人との関わりがあるとされているが、安曇氏の拠点である志賀島の志賀海(しかうみ)神社の拝殿前に「鹿角庫(ろくかくこ)」があり、その中は、鹿の角で埋め尽くされている。
また、『住吉大社神代記』で、神功皇后に関する次のような記録がある。
「熊襲二國を平伏(ことむけ)、新羅國より還り上り賜ふ時、鹿兒(かこ)に似たるもの海上(うみ)に満ちて浮び漕來(きた)れり。見る人皆奇異(あやし)み、「彼れ何物ぞ。」と云ひて鹿兒に似たる物を問ふ。近くに寄りて筑志(つくし)の埼に來り着きて見れば、藪十餘人(あまたのひと)たち、角ある鹿の皮を着て衣袴(いころも)と着(な)す梶取(かじとり)・水手(かこ)人の大神の舟を漕ぎ持ちて來るなり。故、其の地を鹿兒(かこの)濱と号く。」(『住吉大社神代記の研究』田中卓著作集より)
古代、北九州の筑後平野に筑志米多国造 ( つくしのめたのくにのみやつこ ) という国造が設置されていたので、筑志の埼というのは、この場所を指している。
すなわち、三韓遠征から神功皇后が凱旋する時、筑志の海の上を鹿の子のようなものがたくさん浮かんでいるように見えて、それが何かと近づくと、角のある鹿の皮を着た大勢の人たちが船を漕いでいたという意味になるが、その大勢の人たちは、海人だろう。
後漢の光武帝が、建武中元2年(57年)に、奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印だとみなされている純金製の漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)。
教科書には必ず載っているこの金印が出土した場所は、安曇氏の拠点、九州の志賀島だと考えられている。
そして、志賀島から北九州の博多、春日市や大野城市にかけての福岡平野一帯は、御笠川と那珂川が流れているが、この地域は古代の那珂郡であり、ここが、中国の『後漢書』や「魏志倭人伝」に表れる奴国であるとされる。
那珂郡には縄文晩期の水田跡が発見された板付遺跡がある。さらに遺跡内のゴボウ畑から、地元の考古学研究者である中原志外顕(しげあき)氏が、縄文時代終末期の夜臼式(ゆうすしき)」土器と、弥生時代初期の「遠賀川式(おんががわしき)」土器を一緒に採集した。板付遺跡は、日本で最初に縄文と弥生の二つの時代が重なった場所とされている。
そして、興味深いことに、鹿島という地名のある茨城県には、那珂という地名もあり、721年に完成した『常陸風土記』にも記録されている。
水戸とひたちなか市のあいだに那珂川が流れているが、その周辺には数多くの古代の遺跡がある。そして、石器時代ではシベリア文化との繋がりが強い細石刃文化が見られ、縄文時代は、東北地方、北陸地方、南関東地方のさまざまの要素が流入しており、新潟県の姫川産のヒスイが那珂台地で発見されている。また、弥生初頭の海後遺跡では、水稲栽培が見られる。
九州と茨城に、那珂という土地が存在し、ともに縄文時代からの弥生時代にかけて、遠く離れた地との交流が裏付けられる遺跡が充実し、国譲りにおいて重要な役割を果たすタケミカヅチを祀る鹿島神宮が茨城に鎮座している。
鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチノミコトのところに、アマテラス大神の使者としてやってきた天迦久神(アメノカグノカミ)の「迦久」は鹿児(かこ)の意で、これは、上に述べたように海人と関係の深い鹿の神であるとされる。また、奈良の春日大社は、タケミカヅチが鹿島神宮から神鹿の背に乗ってやってきたとされ、春日大社でも鹿が聖なる生物となった。
安曇氏の拠点である九州の志賀島と、鹿島の地である茨城は、ともに古代の海上ネットワークの拠点だった。
初代神武天皇の母親にあたる玉依毘売と、祖母にあたる豊玉姫は、ともに安曇氏の祖神に位置付けられるワタツミの娘であるので、神話づくりの段階において、海人の安曇氏の存在が重要視されていたことは明らかだ。
しかし、天孫降臨の息子の山幸彦は、ワタツミの力を借りて兄の海幸彦を懲らしめたのだが、その海幸彦は、南九州の阿多隼人の祖とされている。
そして、山幸彦と海幸彦を産んだコノハナサクヤヒメは、別名が神阿多都比売(かむあたつひめ)であり、この女神もまた、南九州の阿多隼人の女神を意味する。
ゆえに、コノハナサクヤヒメの長男の海幸彦が、南九州の阿多隼人の正統であり、次男の山幸彦が、安曇氏の祖神であるワタツミの力を借りて海幸彦に象徴される阿多隼人を懲らしめて従属させたことになる。
この阿多隼人と、海人の宗像氏は同族である。
宗像氏は、宗像三姉妹を祀る全国の国宗像神社の総本社・宗像大社の大宮司家であり、主に玄界灘に活動の痕跡が残り、九州と朝鮮半島のあいだの海運で活躍した勢力として知られるが、阿多隼人の吾田片隅命を祖としている。
阿多隼人は、フィリピンやインドネシアなど南方から黒潮に乗って北上した海人であると考えられているので、宗像氏は、もともとは南方からやってきた海人だということになる。
それに対して安曇氏は、稲作が日本に伝えられる際に活躍した海人であり、中国の江南と関わりが深い。
古代、異なる海人が存在し、日本が一つの国にまとまっていく段階において、海人のなかでも力関係の変化があった可能性があるのだ。
だとすると、阿多隼人の女神コノハナサクヤヒメの父、オオヤマツミ神は、いったい何を意味するのか?
オオヤマツミ神は山の神であるが、渡しの神でもある。水上交通のための船の材として山の森林が重要だったし、日本は海や湖や河川にそって特徴的な形の山が多く、それらは海人にとっての目印になっていた。ゆえに、オオヤマツミ神もまた海人と関わりの深い存在だと考えられる。
(大三島の大山祇神社)
オオヤマツミ神を祀る神社の本拠地は、愛媛県大三島町の大山祇神社であり、ここは、古くから西日本と近畿を結ぶ水運交通の要だった。
また、淀川流域の三島鴨神社もそうで、ここは、古代、重要な軍港だった。
そして、伊豆の三嶋大社の祭神の三島明神は、江戸時代の国学者の平田篤胤が事代主のことだとしたが、それ以前の記録では、オオヤマツミ神であり、ゆえに現在は、この両神が主祭神となっている。
三島明神は伊豆諸島の開拓神であり、三宅島から伊豆下田の伊古奈比咩命神社=白濱神社が鎮座する場所に移り、その後、現在の三嶋大社の地に移ったとされるが、下田の伊古奈比咩命神社では、縄文時代の祭祀場の跡が発見されている。
(伊豆下田の伊古奈比咩命神社)
この三島明神(オオヤマツミ神)の最初の妃が、黒曜石の島、神津島の女神、阿波姫である。この女神は、熱海の多賀神社(白浪之彌奈阿和命神社)、掛川の粟ヶ岳山頂の阿波々神社など、海人とも関わりのある地で、かつ縄文祭祀とつながっている地に祀られている。
だとすると、オオヤマツミ神の娘のコノハナサクヤヒメが南九州の阿多隼人の女神であるとすると、もう一人の娘、磐長姫は、いったい何を意味するのか?
天孫降臨のニニギは、この磐長姫を忌避した。
この謎を考えるヒントが、伊豆にある。
一般的に、富士山の女神はコノハナサクヤヒメであり、富士山に対する信仰の神社である浅間神社は、コノハナサクヤヒメが祭神のところが多い。
しかし、西伊豆の標高162mの烏帽子山の山頂に鎮座する雲見浅間神社と、東伊豆の大室山の火口に鎮座する浅間神社の祭神は、ニニギに忌避された磐長姫(コノハナサクヤヒメの姉)だ。
この二つの神社に共通しているのは、いずれも富士山を遠望できる場所で、なおかつ火山と直接関係のある場所に鎮座しているということ。
東伊豆の浅間神社が鎮座する大室山は、4000年前に噴火した火山であり、西伊豆の雲見浅間神社が鎮座する烏帽子山は、火山の地下深くのマグマの通り道が地殻変動で隆起して地表に姿を現したものだ。
さらに、富士山の五合目に鎮座する富士山小御嶽神社の祭神も磐長姫である。
小御嶽は現在の富士山より先に「富士」に出現した山で、小御嶽と古富士の二つの山を土台に噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山であり、その小御嶽の山頂部分に磐長姫が祀られている。
また、東伊豆の大室山の浅間神社と、富士山小御嶽神社を結ぶラインを延長すると、八ヶ岳の権現岳であり、この山頂に檜峰神社の祠があり、ここでも磐長姫が祀られている。
つまり伊豆半島から富士山を通って八ヶ岳まで一直線のラインが引かれ、それぞれの火山と関わりの深いところに磐長姫が祀られているのだ。
そもそも、富士山の信仰の神社なのに、なぜ「浅間神社」なのか?
浅間という名は、活火山で有名な浅間山(群馬県と長野県の県境)が有名だ。
しかし、九州の阿蘇山が望めるところにも浅間神社が鎮座しているように、「あさま」は火山を示す古語とされ、阿蘇山の「あそ」も同系の言葉であると言われる。
実は、この長野の浅間山の周辺にいくつか鎮座している浅間神社もまた、伊豆半島の浅間神社と同じく、祭神がコノハナサクヤヒメではなく磐長姫なのだ。
富士山の噴火は、5世紀後半、清寧天皇の時のものが記録されているが、その後は781年、それ以降現在まで16回記録され、特に、平安時代には立て続けに噴火し、平安時代だけで10度の噴火がある。富士山と火山との関係が強く意識されたのは、おそらく平安時代だろう。
特に864年の貞観の大噴火は凄まじく、『日本三代実録』によれば、この大噴火を受けて甲斐国でも浅間神を祀ることになり、865年に甲斐国八代郡に浅間神社を建てたとあり、その時、コノハナサクヤヒメが祭神となった。
それに対して、群馬の浅間山は、天武天皇の時、「685年、信濃国で灰が降り草木が枯れた」とする記述が日本書紀にあり、これが浅間山の噴火とされている。
685年というのは、日本書記や古事記が書かれる直前だ。
なので、古事記が書かれた当時、大噴火と結びつけられる火山は、富士山ではなく浅間山だった。
だから、火山と関係の深い神社である浅間神社は、もともとは富士山信仰の神社ではなく、浅間山に代表されるような大噴火と関係のある神社だったのだろう。そして、その時の女神は、磐長姫だったのではないか。だから、現在も、火山の痕跡の著しい東伊豆の大室山や、西富士の烏帽子山に鎮座する浅間神社の祭神が、磐長姫になっている。
こうして見ていくと、どうやら伊豆から群馬や長野にかけての火山帯において、古代、火山と関わりのある女神が磐長姫だったのではないかと想像できる。
(火山の島である三宅島に二宮神社が鎮座し、ここは、伊波乃比咩命神社の論社されるが、この祭神の伊波乃比咩命(いわのひめ)が磐長姫であるという説もあり、磐長姫を祭神とする西伊豆の雲見浅間神社も、伊波乃比咩命神社の論社である)。
磐座は、風化侵食に負けない固い岩であるが、その多くは、火成岩や、火成岩が火山噴火で焼き固められた変成岩が多い。
縄文時代の遺跡は火山周辺に多いことから、縄文人は火山を信仰の対象としていたと思われる。ゆえに、縄文人にとって磐座は神の宿る場所だった。
しかし、弥生時代になって、火山活動は、農耕に大きな被害をもたらす厄災となった。だから天孫降臨のニニギは、火山活動を象徴する磐長姫を忌避した。それに対して、磐長姫の父親のオオヤマツミ神は、ニニギの子孫の寿命は短くなると嘆いた。
実際にその通りとなり、火山と共存しながら安定し長く続いた縄文時代に比べて、弥生時代以降、人々の暮らしは不安定になり、変遷の著しいものとなったのだった。
*ピンホールカメラで、日本の古層をめぐる旅
「Sacred world」をホームページで販売中