第1422回 源氏物語と、もののあはれ

石山寺紫式部が、源氏物語を書き始めた場所とされる。

 

 NHK大河ドラマの「紫式部」は、藤原道長との恋愛が軸になっているそうで、その恋愛が「源氏物語」の着想につながっているという設定のようだが、本当に、そういう安易な解釈でいいのだろうか。

 光源氏の「源氏」は、天皇の子として産まれながら、母親の身分が低かったりの理由で臣籍降下をして皇室を離れた者の姓である。

 源氏物語の主人公の光源氏は、桐壺帝の子として産まれたが臣籍降下をした貴族である。

 この桐壺弟は、源氏物語の書き出しで理想的帝王として描かれており、聖代とされる醍醐天皇がモデルとされている。

 ならば、ふつうに考えれば、醍醐天皇の子でありながら源氏の身分に臣籍降下をした源高明を、光源氏に重ねた方がいいのではないか。

 光源氏のモデル候補としては、紫式部が生きた時代より150年も前の嵯峨天皇の息子、源融なども有力候補などと言われるが、この人物は、歴代最初の「源氏」で、京都の六条河原院に壮大優雅な庭園を造らせたという故事があり、これが、光源氏の絶頂期の住まいである六条院のイメージの元になった可能性がある。しかし、紫式部と近い存在なのは源高明であり、その栄光と悲哀に満ちた人生も、光源氏が辿った人生に重ねられる。

 さらに、藤原道長は、この源高明が失意のなかで亡くなった後、その娘の源明子を妻にしている。

 藤原道長は6人の女性を娶ったが、正室と妻、二人の妾の4人が源氏の娘であり、残り2人だけが藤原氏の娘であった。さらに、藤原道長は、後の時代に源頼朝足利尊氏を生んだ清和源氏とも深い関係にあり、道長を経済的に支え、警護も担っていたのは、源頼光だった。

 この清和源氏が、次の時代の主役になっていくわけだが、源氏物語が、「源氏」を主人公にして描かれているのは、こうした歴史的背景がある。

 そして、紫式部と、私が光源氏のモデルだと考える源高明のつながりは、理想的帝王の桐壺帝のモデル、醍醐天皇である。

 醍醐天皇の母の藤原 胤子の兄の藤原定方の娘が、紫式部の父親の母なのだ。

 また、醍醐天皇は、源氏の身分で産まれて天皇になった唯一の天皇でもあり、醍醐天皇と血がつながった紫式部が、「源氏」を主人公にして物語を紡いだ背景に、この史実もあると思われる。

 藤原道長紫式部は、ともに「源氏」と深く関わっていたのだ。

 そして、醍醐天皇の子として産まれたものの、母親の身分が高くなかったために7歳の時に臣籍降下をして源氏の身分となったのが源高明だった。

 967年、源高明は、自身の娘を次の東宮(皇太子)の有力候補である為平親王の妃とし、栄華の絶頂にいたが、969年、安和の変が起こり、これに巻き込まれて謀反の疑いがあるとされ太宰府に流された。

 この事変は、藤原氏の陰謀で政敵の源氏を政界から追放するためのものだと説明されることが多いが、そんな単純なことではない。

 一般的に藤原氏を一括りにしている人が多いが、この安和の変の背後の事情は、藤原兼家藤原道長の父)と、藤原兼通の兄弟対立である。

 さらに、後の時代に武士となる勢力のあいだにも対立があった。藤原兼家を武力面で支えていたのは清和源氏源満仲で、藤原兼通には、藤原千晴がいた。藤原千晴は、平将門の乱を平定した藤原秀郷の三男で、父の功績で平安京で活動するようになっていた。

 そして、この藤原千晴源高明の従者であったために、源高明も関与が疑われたのだ。

 この乱は、清和源氏源満仲が、「謀反を起こそうとしている人物がいる」と密告したことから始まったが、源満仲清和源氏によって捕らえられた藤原千晴は、隠岐国流罪となり、これを機に藤原秀郷の後裔は平安京から姿を消すことになるが、これが後に、東北の平泉を拠点に栄華を誇る奥州藤原氏となる。

 この奥州藤原氏は、1051年の前九年の役で、東北の安倍氏とともに清和源氏源頼義と戦い、さらに、1189年、源義経を匿ったとして清和源氏源頼朝によって滅ぼされたわけだが、清和源氏藤原秀郷の後裔の確執は、969年の安和の変から始まっていたことになる。

 源高明は、安和の変の2年後の971年に罪を赦されて帰京したが、政界に復帰することなく隠棲しており、源氏物語において、晩年、姿を消す光源氏と重なってくる。

 源高明が亡くなってから、藤原道長は、彼の娘を妻とした。

 源高明は、僅か2年で太宰府から帰京しているので、藤原兼家と兼通兄弟の対立、および清和源氏藤原秀郷の後裔の戦いの巻き添えをくっただけなのだろう。

 光源氏のモデルを源高明とする説は、鎌倉時代の後半にも記録として残されているが、江戸時代に本居宣長が、「光源氏のモデルを歴史上の色々な人物に見出そうとしているが、その一人ひとりが、個別の事柄で一致していても、全てが完全に一人にあてはまるわけではない」と批判している。

 本居宣長は、当たり前といえば当たり前のことを堂々と宣言しているが、色々な史実から着想を得て、それらを複雑に織り成して源氏物語という文学は作られている。

 しかし、それでも物語には軸になるテーマがあり、源氏物語に流れている深いテーマは「もののあはれ」だ。そのテーマに一番相応しい人物が誰なのかを、考える意味がある。

 光源氏の候補とされる源融や、藤原高藤(身分の低い家の娘と結ばれて産まれたのが、宇多天皇の妃となった藤原 胤子で、ふたりの間に醍醐天皇が産まれた史実が、光源氏と明石の君のあいだに産まれた明石の姫君が皇后となって世継ぎを産むという筋書きと重なっている)と源高明、そして藤原道長も含めて、その生涯を通して「もののあはれ」の物語の主人として、また「源氏」と紫式部の関わりを示す存在として、誰が相応しいかと考えると、源高明だろうと思われる。

 源氏物語は、理想的帝王の桐壺帝のことから始まり、この桐壺帝の息子でありながら、源氏の身分に臣籍降下をしたのが光源氏だという設定から始められる。

 この桐壺帝は、源氏の身分から天皇になった唯一の存在である醍醐天皇がモデルで、この醍醐天皇の子でありながら源氏の身分に臣籍降下したのが源高明。しかも、醍醐天皇も、源高明も、紫式部と共通の祖を持つということになる。

 そして、栄華の側面ばかり強調されている藤原道長も、その晩年は、病に伏せがちで、出家することになり、「もののあはれ」の気配が強かった。

 しかも、彼は、清和源氏によって支えられ、その見返りに清和源氏に権限を与えており、このことが、貴族の時代の終焉と武士の台頭を加速させることになったわけだが、こうした時代の境目にいることも深く感じていただろう。

 以前にも書いたが、​​藤原道長が詠んだとされる「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」は、この世で自分の思うようにならないものはないという驕りを歌ったものではないことは、自分の世を欠けていくことが宿命の月に喩えていることから明確である。

 藤原道長が、源高明の娘の明子を妻に娶った時は、すでに源高明は亡くなっていたし、その晩年は謀反の疑いをかけられていたわけで、政略結婚ではないことは明らかだが、この明子は、父の死後、藤原道長の姉で一条天皇の母となる藤原 詮子に引き取られていた。詮子は道長と仲が良く、道長が兄弟のなかでの出世競争に勝ち残る後ろ盾になった詮子が、藤原道長に、源明子を娶らせたと考えられる。

 藤原詮子は、真如堂・慈徳寺を建立するなど厚い信仰心をもった女性であり、源高明が、詮子の父親の藤原兼家と伯父の兼通の兄弟対立などに巻き込まれ悲劇を被ったことから、その娘で薄幸の明子を、保護していたのかもしれない。

 こうした仏道の精神も、源氏物語には強く反映されている。

 光源氏も、彼の最愛の女性の紫の上も、強く出家を望んでいたが、なかなか望みは叶わなかった。

 それに対して、光源氏も紫の上もいなくなった源氏物語の後半、宇治十帖の最後を締めるのが、薄幸の人生を送ってきて、その最後に潔く出家する浮舟という女性がいる。

 その名前のとおり、幼少の頃より運命に翻弄されるように不幸が続いていた浮舟は、光源氏正室女三宮に密通した柏木の子という複雑な出生の事情を持つ薫の愛人となって宇治に囲われる。しかし、彼の留守中に、光源氏の美しい表面だけを受け継いで内面に欠ける匂宮(光源氏の孫)に欺かれるように関係を持ってしまい、二人の貴人のあいだで板ばさみに苦しむ。その事が薫に知られ、追い詰められた浮舟は自死しようと試みたが、山で行き倒れている所を横川の僧都に救われ、出家をする。

 その後、浮舟のところに薫が訪ねてきて、自らの元に戻るよう勧められても、それを拒絶して、源氏物語は終わる。

「橘の小島の色はかはらじをこのうき舟ぞゆくへ知られぬ」

 あなたの心は変わらないかも知れないけれど、水に浮く小舟のような私の身は不安定で、どこへ漂ってゆくかも知れない。

 この謎めいたラストが、長大な源氏物語の秘められたテーマの総括ということになる。

 源高明の娘の明子を妻とした藤原道長は、国母として自分を支えてくれた姉の詮子を通じて、仏道の影響を受け、慈愛も深かったのだと思われる。

 信仰に厚い詮子が、兄弟のなかで特に道長を可愛がったのも、もしかしたら、道長のなかに仏道に通じるのものを感じていたからかもしれない。

 紫式部は、祖先を通じて血のつながった醍醐天皇と通じて、「源氏」は深く自分ごとであったし、藤原道長にとっても、妻たちや、清和源氏を通じて、「源氏」は深く自分ごとであった。

 そして、源氏物語が書かれて時は、貴族から武士の時代への転換期であり、さらに末法の時代であり、「もののあはれ」と「仏道」の気配が濃くたちこめていた。

 源氏物語を、華やかな平安貴族の絶頂期の物語として認識している人があまりにも多いが、それは残念ながら、学校で教える先生にも、源氏物語を読み切っている人が少ないからだろう。

 おそらく、大河ドラマの制作に関わっている人たちの中でも、源氏物語を読んだ人は少ないと思われる。もしくは、「10分でわかる」の類か、光源氏の恋愛物語に歪められている漫画を通じて、知ったかぶっているだけだろう。

 日本の歴史上、最高峰の文学とされ、海外でも広く紹介されているにもかかわらず、源氏物語の真相は、日本人の心には、あまり行き渡っていない。

 

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