第1421回 源氏物語のハリウッド的味付け!?

源氏物語の後半の舞台は宇治。宇治平等院は、藤原道長の息子、藤原頼通が、末法の時代を反映させて、別荘を寺に改めた。

大河ドラマの「紫式部」は、セクシー&バイオレンス路線なのだそうだ。そうしないと視聴率を稼げないのだそう。

 テレビ番組については関心がないので、どうでもいいのだが、セクシー&バイオレンスでやりたいのであれば、1000年前の世界を題材にするのではなく、現代風のドラマでも作ればすむこと。川端康成三島由紀夫など、日本文化や日本の美について深く考え抜いていた人たちが、日本の歴史上、最高峰の文学だとみなし、その後の歴史において超えるものがないとする「源氏物語」の背景を歪めてしまうことにならないか、もう少し考えた方がいいのではないだろうか。

 『苦海浄土』の石牟礼道子さんや、『百年の孤独』のガルシア・マルケス、『罪と罰」のドストエフスキーといった人たちを、視聴率を稼ぐためという理由で手前勝手な脚本で描くことは躊躇われるだろうが、紫式部は1000年前の人なので、そんな昔の人の尊厳など気にする必要なしということか。

 NHKは、日本国民の受信料によって運営され、公共の福祉と文化の向上に寄与することを目的に設立された公共放送事業体である。

 NHKに対して、”文化の向上”を期待している人が、果たしてどれだけ存在するのかわからないが、そもそも、HNKで働いている人で、このことを深く考えている人が、どれだけ存在しているのか疑問だ。

 食堂でご飯を食べている時に、ダイジェストか何かで映像が流れていたが、紫式部役の女優さんは、喋り方や動作など銀行か何かのコマーシャルの印象とまったく同じだった。素のまま演じることが持ち味なのかもしれないが、現代のトレンディドラマに向いていても、果たして源氏物語の作者としてどうなのか疑問に思わざるを得ない。

 『源氏物語』は、決して、浮かれた恋愛物語ではない。

 物語の前半、光源氏がまだ若い頃の話のなかで特に重要な役割を果たしているのが、六条御息所の怨霊だ。この祟りによって、光源氏正室だった葵の君と、夕顔は命を落とす。

嵯峨野の竹林。伊勢神宮に仕える斎王が伊勢に赴く前に身を清めた「野宮神社」が、竹林の中に鎮座する。源氏物語では、怨霊として光源氏の周りの女性を苦しめた六条御息所と、斎王となったその娘(のちの秋好中宮)が、ここでしばらく暮らし、そこに光源氏が訪ね、別れを惜しんだ後、二人の女性は伊勢に向かう。

 「崇」という字は、「崇める」という意味でも使われるが、「たたる」は「たつ」が原語で「顕つ」から発生しており、これは、目に見えない力が現れることを意味しており、神と怨霊の違いはない。

 「畏れ」という言葉も同じで、単なる恐怖ではなく、憧憬や敬意を含んでいるが、自分の理解を超えた何事かに対する気持ちである。

 自然を愛でる気持ちも含めて、そこにある物自体の美しさに心はとどまらず、その背後にあるものへの思い。このことを踏まえずに、源氏物語を読み解くことはできない。

 光源氏が女性に心を惹かれるのは、歌や会話や振る舞いなどから滲み出る知性や教養、心の持ちようの面白さや可愛らしさや健気さを通じてであり、今でいう顔やスタイルといった表面ではない。

 そもそも、日本が伝統的に育んできた文化芸術で、現在まで残るものの多くは、「 畏」や、「崇」といった目に見えない力に対する思いが強く反映されている。

 能は言うに及ばず、俳句にしてもそうだし、たとえば建築や庭園にしても、自然に対する「 畏」の気持ちが根本にある。

 自分の思うように自然を使うのではなく、できるだけ自然の摂理に反しないように使わせていただくという気持ちは、「 畏れ」である。そうしないと、「祟られる」のだ。

 そうした文化の歴史的な積み重ねによって、自らの我を強く主張するものよりも、質素で慎み深いものに隠されたものを汲み取る感受性が育まれた。

 自らを謙虚にする文化を作り上げてきたことじたいが、この国の深い叡智であり、そのエッセンスが、「もののあはれ」である。

 源氏物語というのは、中世の日本文化に通底する「もののはれ」の芸術表現としての源流であり、だからこそ、日本の歴史において、極めて重要な創造物なのだ。

 源氏物語の第41帖までの主人公である光源氏の若い頃の物語においては、六条御息所の怨霊が大きな役割を果たすが、その後、光源氏は凋落して、須磨に流れゆき、明石入道に出会う。 

 そこから光源氏は、再び、栄華を取り戻していくが、心の中は常に虚ろであり、出家願望を強く持つようになる。

 さらに、光源氏が期待をかけていた柏木が、光源氏の継室(後妻)である女三宮と密通し、薫が産まれる。世間は、光源氏の子だと信じているが、光源氏は、事実を知ってしまう。そして、女三宮は、これを機に出家する。

 そして、光源氏が、生涯を通じて愛していた紫の上は、子供を宿すことなく亡くなる。

 41帖の「幻」の帖は、紫の上に先立たれて悲しみにくれる光源氏が、出家を決心し、その心情が、四季のうつろいを通して描かれ、「大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂(たま)の行く方たづねよ」と詠む。

 姿の見えない紫の上に対する深い思いがここにある。

 全体で54帖もある源氏物語で、光源氏もまた、その後、姿を見せない。

 須磨と明石を転換点として光源氏は、栄華の道を歩んでいるように見えるが、その光が強まれば強まるほど、影も濃くなっていく。

 NHK大河ドラマにおける光と影は、どうやらセクシーとバイオレンスのようだが、アメリカのハリウッド映画のようなものにしておけば、今日の日本人の多くが喜んでくれるとでも思っているのだろうか。

 日本国の公共放送事業体は、「日本人の知性と教養はその程度のもの」とみなしているのだろう。

 日本国の学校教育も、文化とは何かを教える場ではないのだろう。

 

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