ネットニュースを流し読みしていると、HNK大河ドラマへの便乗で、源氏物語や紫式部に関する情報提供が多い。
ここぞとばかりに研究者やその周辺の人たちが、光源氏のモデルが藤原道長だとか、もしくはその父の兼家であるとか、紫式部は、おたく文化でわかりやすく例えるならば「夢少女」云々など、世俗化して貶める傾向が著しい。
大河ドラマは、娯楽用に作り替えられていることを承知の上で観ている人が多いだろうが、専門家と称する人たちの浅はかな情報流布は、結果的に、自分たちの仕事の価値を損なっていくことになるだろう。
昨今、大学に文学部は必要ないという意見も多くなっており、それに対して文学部の先生たちは、大学は実学だけの場所ではない等と反論しているが、だったら何を学ぶべき場なのか、自らを省みる必要がある。
源氏物語や紫式部に関して、あれやこれやと意見を述べる人は多いが、第41帖の「幻」で光源氏がフェードアウトした後、物語の中心になっていく宇治の十帖について、深く掘り下げた解説を見たことはない。
そもそも、なぜ宇治なのか?
紫式部や源氏物語と宇治の関係を考えていくうえで鍵になることが幾つかある。
まず、宇治における最も古い聖域は宇治上神社であり、主祭神は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)で、この人物の名、「うじ」が地名になっている。
といっても、これが誰なのか知らない人が大半だが、日本書紀のなかで、仁徳天皇とのあいだで皇位の譲り合いが長くなってしまい、それが天下の煩いとなることを心配して、身を引くために自殺したと伝えられる人物だ。
この人物は、史実かどうかわからないが、応神天皇と和邇氏の娘のあいだに産まれたと位置付けられており、和邇氏は、正月明けに三日連続で源氏物語について投稿した時に説明したように、小野氏の祖であり、物語の伝承に関わっていた氏族である。
正月明けの投稿のなかで書いたように、紫式部と小野篁の墓が京都の堀川通に並んで築かれていることや、紫式部のルーツである宮道氏の館が山科の小野郷にあることなどから、紫式部が源氏物語を創造するにあたり、背後に「小野」の陰が見え隠れする。
そして、宇治の宇治橋に祀られているのは橋姫だが、この神の正体は、瀬織津姫とされる。
瀬織津姫は、記紀に登場しない神なので、スピリチュアル好きな人たちは、これは縄文の神で藤原不比等によって封印された、などと主張したりしているが、東京の聖蹟桜ヶ丘に鎮座する武蔵国一宮の小野神社の祭神であるように、「小野氏」が、この神の普及に関わっていたと考えられている。
瀬織津姫は、一般的に、水の神、河や海の神、祓いの神なのだが、その名のとおり、瀬で織物をする姫だから、コノハナサクヤヒメなど記紀に登場する多くの巫女たちの総称だろうと思われる。
神話の中の巫女たちは、異界との境界である河の瀬や海岸で織物をしていたと描かれており、そこにマレビトがやってくる。
この巫女たちは、一番最初に異界のものと交わり、相手が危険なものかそうでないかを判断し、時には犠牲となった。
記紀が書かれる以前は、この種の巫女が、日本中に数多く存在し、それらの物語が口承で伝えられており、その口承伝承の中心は、古事記編纂において活躍する稗田阿礼の出身である猿女氏が担っていた。
この猿女氏が、奈良時代、小野氏に仕事を奪われていると朝廷に不満を訴えている記録が残されている。
奈良時代というのは、古事記のように物語が口承から文字記録に置き換えられていく時期である。猿女氏の仕事が小野氏に奪われるというのは、猿女氏が担っていた口承の社会的ポジションが低くなっていく時代を反映しているのだろう。
瀬織津姫というのは、そうした新しい時代に、猿女氏に代わって文字によって伝承を担うようになった小野氏が、過去の巫女の役割を、瀬織津姫という神に一本化したのではないかと思われる。
正月明けの投稿にも書いたが、源氏物語に登場する女性たちは、古代、マレビトと交わる巫女たちに重ねられており、その巫女たちを一つにした存在が瀬織津姫であり、この神が、宇治橋に祀られていること。源氏物語の後半の舞台が、宇治に変わる理由の一つが、ここにある。
さらに重要なことがあり、古代の巫女が瀬織津姫に代る時、瀬織津姫に祟り神の性質が加味されることだ。
瀬織津姫は、大祓詞の中で、四柱の祓戸の大神として一番最初に出てくる神で、疫病が大流行したり、天変地異が起きた時、祓い清め(浄化)、災いを鎮める神なのだが、災いが起きた時に、その神意が問われる存在である。
「祟り」と「崇める」は、「祟」という同じ漢字だが、折口信夫などは、「祟つ」を、「顕つ(たつ)」にルーツを求めている。その意味は、目に見えない力の顕現化である。
崇める神も、怒れば祟る神になるのであって、元は同じだ。
宇治橋における瀬織津姫は、とくに「鬼」としての性質が強調されて伝えられている。
京都の貴船神社で丑の刻参りをして鬼になった女や、一条堀川の戻橋で渡辺綱に腕を切られた鬼などは、宇治橋の橋姫(瀬織津姫)であり、宇治橋の守神である瀬織津姫は、嫉妬深い女の情念がつのって鬼になった存在として描かれている。
源氏物語の中で、特に重要な女性である六条御息所が、これに該当する。
情念が並外れて強いうえに自己抑圧も強い六条御息所の押し殺した心が恨みに転化し、物の怪となって、夕顔や葵の上を死に至らしめ、さらに光源氏が最も大事にした女性である紫の上を苦しめ、光源氏の正室である女三宮にも取り憑く。
この六条御息所の娘が、伊勢神宮の斎宮としてアマテラス大神に仕える巫女となる秋好中宮だ。
瀬織津姫というのは、アマテラス大神の荒御魂ともされており、源氏物語は、古代の神様の事情を、かなり深いところで重ねて物語化している。
瀬織津姫を祀る宇治の宇治橋と、伊勢神宮の宇治橋は冬至のライン上にあり、伊勢神宮の宇治橋の近くにも、橋姫を祀る饗土橋姫神社がある。
饗土橋姫神社も、地図を見ればわかるように、この冬至のライン上にあり、さらに伊勢の宇治橋は、冬至の日に太陽が橋の真ん中から上るように作られている。
これらの神々の配置や、その構造は、明らかに計画的である。
そして伊勢の宇治橋よりも、宇治の宇治橋の方が、先に作られていた。古代においては、伊勢より宇治の方が、聖域として重要な場所だったのである。
さらに、この二つの宇治橋を結ぶ冬至のラインを西に伸ばしたところに、紫式部の氏神である大原野神社が鎮座している。
また、宇治の宇治橋の真北7km、大原野神社から真東14kmのところに、現在は勧修寺があるが、ここが、正月明けの投稿にも書いたように、紫式部のルーツである宮道氏の館があったところなのだ。
この宮道氏の館から真北に11kmのところが、平安京の鬼門にあたる小野郷の御蔭山で、ここは賀茂の神が降臨した場所とされる元下鴨神社である。今でも、賀茂の葵祭は、ここから始まる。
源氏物語では、光源氏の全盛期に築いた六条院において、東南の春の町に住んだ紫の上が賀茂神、東北の夏の町に住んだ玉鬘が春日神、西南の秋の町に住んだ秋好中宮が伊勢神、西北の冬の町に住んだ明石君が住吉神に重ねられているのだが、宇治を要として、伊勢神宮と、紫式部の氏神である大原野神社(春日神)は冬至のライン上、賀茂神は真北に位置しており、残りの住吉神は、宇治橋の橋姫神社に、橋姫(瀬織津姫)とともに祀られている。
紫式部が、源氏物語を、住吉神にゆかりの須磨と明石から書き始めた場所とされる石山寺は、宇治川が、琵琶湖から流れ出る場所に位置し、ここは南九州の海人族である隼人の拠点だった。
正月明けの投稿でも書いたが、住吉神は、もともとは吉野の丹生津姫で、この神は、南九州を拠点としていた海人族と関わりが深く、南九州の海人族の女神である神吾田津姫(別名がコノハナサクヤヒメ)を、富士山本宮浅間山神社で祀ってきたのが和邇氏で、和邇氏を代表する神話的象徴人物が、宇治上神社の祭神の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)なのである。
コノハナサクヤヒメも、皇位を譲って自殺したとされる菟道稚郎子も、皇位の陰にまわる存在として共通であり、これが和邇氏のポジションを象徴的に示している。おそらく神話の創造に和邇氏が大きく関与して、そのように物語を作り上げたのだろう。
この和邇氏の後裔が、紫式部の背後に見え隠れする小野氏なのである。
宇治という場所は、古代、この海人勢力の和邇氏にとって重要な場所で、源氏物語の後半、宇治が舞台となるが、その時に栄華を極めるのが、海人勢力にとって重要な住吉神の加護を受けていた明石一族だ。
その明石一族の繁栄を陰で支えるのが、今は姿なき光源氏の威光である。
源氏物語の前半、光源氏は、落ちぶれて須磨と明石に流れ着いくが、明石入道に支えられて、光源氏は復活する。この時の光は、光源氏であり、明石一族は陰であった。
しかし、物語後半の宇治十帖では、光と陰の関係が逆転するのである。
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