第1282回 縄文の記憶が重ねられた諏訪の祭祀

諏訪大社 前宮 御室社。ここに半地下式の土室(つちむろ)が造られ、金刺氏で現人神とされる大祝と、洩矢氏の神長官以下の神官が参篭し、蛇形の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした。旧暦12月22日に「御室入り」をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが、中世以降は廃絶した。


 今回、京都から東京への移動で、伊勢と諏訪を一繋がりで探検したことで、今まで謎めいたことが、少し読み解けてきた。

 前のエントリーに書いた伊勢だけでなく、諏訪もまた”つくられた聖域”であり、伊勢と諏訪は、添付した地図を見ればわかるように、国譲りに関係のある神々の聖域として、あまりにも計画的に配置されている。

諏訪大社伊勢神宮のあいだは215kmだが、諏訪大社から東に215kmのところが香取神宮である。  そして、香取神宮伊勢神宮のあいだは380kmだが、伊勢神宮から島根の出雲大社までも380kmである。国譲りに関係している聖域と、国家神を祀る伊勢神宮が、秩序的な配置になっている。

 諏訪は、縄文王国の中心なので、もちろん古代から続く聖域であることは間違いないが、縄文時代から続く聖域は日本中至るところに存在していて、それが、ある時、何らかの理由で、国家的な様相を帯びた聖域になる。

 諏訪大社というのは、わりと知られた聖域であるが、これは一社ではなく四社合わせたもので、その在り方じたいに謎がある。しかも、その四社は、それぞれ、聖域としての構造と、雰囲気が異なっている。

 諏訪は、古事記によると、タケミカヅチとのあいだの国譲りの戦いに敗れたタケミナカタが逃げ延びた場所とされ、諏訪から出ないことと、葦原中国天津神の御子に奉る旨を約束するという条件で、ここに留まったと記されている。 

 また、タケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では、現地の神々(洩矢神)を征服する神として登場するが、諏訪の地における祭祀では、先住の洩矢氏の神官が、諏訪明神の現人神である「大祝」(おおほうり)となる童男に、ミシャクジ神の神下ろしを行っており、先住の神々への信仰が、こうした仕組みによって後世に引き継がれている。

 この儀式が行われた場所が、諏訪湖の南で、現在、四社のうち前宮が鎮座する所だ。

 前宮は、四社の中で一番古く、本来は洩矢氏の本拠地で、ミシャクジ神の聖域だったと考えられる。

 諏訪大社というのは、諏訪湖の南に鎮座する前宮と上宮、北に鎮座する下社の春宮と秋宮の4社で構成されるという得意な形をとっており、これが、全国に25000社存在する諏訪神社の総本社である。

諏訪大社 上宮。この壮麗な空間には、本殿がない。

 そして、前宮でのミシャクジ下ろしで諏訪明神(一般的にはタケミナカタだが、タケミナカタと妃のヤサカノトメノカミの合体ともされる)の現人神となった大祝じたいを御神体としていたのが、立派な佇まいの上社の上宮であるが、この上宮には、なぜか本殿が存在しない。

 本殿が存在しない上宮の本当の御神体は、裏山の守屋山とか、禁足地にある磐座などとも言われている。おそらく、守屋山は、先住の洩矢氏にとっての聖なる山であったが、その麓に神殿のような上宮を建設し、この場所を拠点にする現人神(諏訪明神であるが、先住のミシャクジ神が下ろされている)を崇敬するという形式で、新旧の祭祀の融合が図られたのだろう。

 だから、諏訪4社の中でもっとも壮麗な上宮は、聖域ではあるけれども、かなり政治的な装置である。

 そして、諏訪湖の北の下社である春宮と秋宮は、主祭神が、タケミナカタの妃のヤサカノトメである。

 諏訪には御神渡り神事がある。真冬、諏訪湖が全面結氷すると南の岸から北の岸へかけて氷が裂けて、高さ30cmから1m80cm位の氷の山脈ができる。これは諏訪上社のタケミナカタが、下社のヤサカノトメのもとへ通った道筋とされている。

 つまり、諏訪湖の南が、タケミナカタの聖域で、北が、ヤサカノトメの聖域ということになる。

 諏訪湖の北にある春宮と秋宮は、南に鎮座する前宮と上宮の違いのように明らかに雰囲気が異なる。下社の春宮は、上社の前宮と同じく素朴な気配があり、古くからの聖域であったのではないかと思われる。下社の秋宮の方は、上社の上宮のように壮麗で、どこか政治的な匂いが感じられる。

諏訪大社 下社 秋宮。ここは、諏訪地方で唯一の前方後円墳である青塚古墳が築かれている場所で、おそらく金刺氏の拠点。

 そう思う根拠は、神社境内から立ち上る気配の違いだけではなく、秋宮のすぐ近くに、諏訪地方で唯一の前方後円墳である青塚古墳が築かれていることだ。横穴式石室を持つこの古墳は、ほぼ聖徳太子の時代と重なる6世紀末に築造されている。6世紀末というのは、前方後円墳の最後の時期である。

 つまり、全国に大型の前方後円墳が築かれていった4世紀末から5世紀ではなく、6世紀末に築かれた青塚古墳が諏訪地方で唯一の前方後円墳なのだから、諏訪地方は、この時期まで、いわゆるヤマトの文化圏ではなかった可能性が高い。 

 そして、この青塚古墳は、諏訪下社の秋宮と、おそらくかつては同じ敷地にあったのではないかと思われるのだが、被葬者は、6世紀後半に諏訪の地を支配するようになった金刺氏ではないかとされる。

 金刺氏は、古代、信濃国を治めていたとされる科野国造の後裔としているが、土地を支配するようになる豪族が、自らの由緒を正当化するために系図の改変を行うことは普通のことであり、そのあたりのことは、議論しても、あまり意味があるとは思えない。

 重要なことは、金刺氏が、6世紀に、継体天皇の息子の欽明天皇に仕えることで金刺という名を賜り、氏族としてのアイデンティティを確立し、諏訪の先住の洩矢氏と共同で祭祀を取り仕切ってきたということだ。

 第26代継体天皇は、それまでの天皇と血統が異なっており、6世紀初頭、隣国の新羅の興隆に対抗すべく日本が統一されていく段階において擁立された天皇である。

 そして、即位後、新羅討伐のための軍を派遣しているが、生誕の地である近江高島が海人の安曇氏の拠点であったように、背後に、安曇氏の存在が見え隠れする。

 その継体天皇の息子の欽明天皇も、新羅に奪われた任那を奪回することを遺言にしたのだが、その欽明天皇に仕えて勢力を増した金刺氏というのは、馬の飼育を行い、馬の力で中央の政権との結びつきを深めていた。

 672年の壬申の乱においても、当初、劣勢だった大海人皇子(後の天武天皇)が、東国の支援を受けることで挽回したが、この戦いで騎兵を率いた多品治(おおのほんじ)は、金刺氏と接近し、大海人皇子との連携をはかった。

 タケミナカタという神は、よく知られた神だが、実は、日本書紀には登場せず、古事記のみに登場する。

 タケミナカタのエピソードが古事記の中に挿入されたのは、壬申の乱において、古事記編纂の責任者である太安万侶の出身氏族である多氏の一人、多品治の仲介で大海人皇子の味方となった金刺氏の働きかけによるものだという説がある。

 だとすると、古事記の中で国譲りに承諾し、諏訪の地から出ないことを条件に存在を許されるタケミナカタは、金刺氏の存在と重なる。

 つまり、古事記の中のタケミナカタの物語が示していることは、律令制の時代となった後も、諏訪の地周辺が、律令制以前の祭祀や統治を認められていたということではないだろうか。

 それは、壬申の乱での貢献もあるだろうが、信濃から甲斐は古代から馬の産地であり、その軍事力を、中央政府が力づくで制御することは難しかった可能性がある。

 そうした朝廷からのお墨付きを得て、金刺氏は、諏訪を治めるわけだが、その金刺氏も、諏訪の先住の人々を力づくで抑え込むわけにはいかない。そのため、洩矢氏との共同祭祀が軸となった。

 諏訪の地を治めるのは金刺氏だが、その権威の象徴となる金刺氏出身の現人神は、先住の洩矢氏の神官によるミシャクジ神の神下ろしが行われた存在なのである。

 こうした構造によって、律令体制以降も、諏訪には、原始の記憶が、維持されてきた。

 金刺氏の後継者に神威を与えるのが、諏訪湖の南の前宮であり、上宮は、前宮で行われる儀式によって現人神となった金刺氏の「大祝」(おおほうり)がいた場所で、ここが政治の中心だったのだろう。 

 そして、諏訪湖の北の下社の一つ秋宮は、金刺氏の墓があり、金刺氏の勢力基盤だった。

 ならば、もう一つの春宮は、何なのか?

諏訪大社 下社 春宮。黒曜石の産地である和田峠を源流とする砥川沿いにあり、近くには、縄文時代の遺跡があり黒曜石が多く出土している。この場所は、おそらく縄文時代からの聖域。

 春宮は、砥川沿いに鎮座している。砥川というのは、和田峠を源流とし諏訪湖に流れ込む一級河川だが、八ヶ岳の豊富な湧水を湛えている。

 そして、春宮のすぐ近くに、一の釜遺跡や、ふじ塚遺跡がある。この二つの遺跡は、近年、本格的な調査が行われているが、一の釜遺跡では、縄文時代前期末葉から中期初頭(約5,500年前)を中心とする集落跡が見つかり、大量の黒曜石が出土している。

 砥川の源流の和田峠は、日本有数の黒曜石の産地である。そして、砥川の川底にも、流水で押し流された黒曜石の転石が堆積しており、それらも利用された。

 つまり、春宮が鎮座するところは、縄文時代からの聖域なのだ。

 黒曜石は、産出する地域によって成分などの特徴が異なり、どこの黒曜石なのかを特定できるが、信州産の黒曜石は、​​北は北海道(館崎遺跡)から西は奈良県(桜ヶ丘遺跡)まで、広く流通していたことが判明している。

 だとすると、誰が、どのように黒曜石を運んでいたかということになるが、日本各地の黒曜石の代表的な産地は、神津島隠岐、瀬戸内海の姫島など海に囲まれた場所が多く、水上交通でしか運べない。

 諏訪は、日本列島の真ん中であるが、諏訪湖天竜川の源流であり、諏訪湖の北の松本盆地は、古代、湖だったと考えられており、その北の安曇野は、海人の安曇氏の拠点で、さらにその北の姫川はヒスイの産地で、糸魚川日本海に注いでいる。姫川のヒスイも、北海道から九州、沖縄まで流通しており、海上交通に長けた人たちの存在が想像できる。

 諏訪下社(春宮、秋宮)の主祭神は、タケミナカタの妃であるヤサカノトメだが、ヤサカノトメは、海人の安曇氏と関わりが深いという説がある。

 松本から安曇野に、小太郎伝説が伝えられている。

 小太郎伝説というのは、かつては湖だった松本盆地から水の出口を作って、平地が作られたことを伝えているが、小太郎の父親の白竜王は、安曇氏の祖神である綿津見神(ワタツミノカミ)の生まれ変わりとされる。

 安曇野から松本盆地は雪山に囲まれていて、雪解け水が流れ込む河川が多くあるけれど、出ていく川は犀川しかない。

 そして、この犀川は、穂高神社(安曇氏の氏神)の近くから、細い谷に沿って北上し千曲川に合流するが、この細い谷が落石などで埋まると、水はどこにも出ていけない。このあたりは、フォッサマグナの西端に近く、地震も多いところだ。

 小太郎伝説では、「小太郎は諏訪明神の化身である母親の犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。」と記述されているが、おそらく、犀竜というのは犀川の象徴で、この細い谷の岩を取り除く作業によって、水の流れを作り出したということだろう。

 その場所が安曇氏の聖域である穂高神社のすぐ近くということもあり、おそらく安曇氏が、その事業を行った。谷を拓いて水を流すことで、海人の安曇氏は、安曇野や松本あたりから千曲川に抜け、日本海に出ることが可能になる。

 小太郎の父の白竜王は安曇氏の祖神であり、小太郎の母は犀竜で、諏訪明神の化身であるが、これが、おそらくヤサカノトメなのだ。

 長野県大町市犀川の流域は、今でも「八坂」という地名である。

 以上の考察から、諏訪下社の春宮は、縄文時代に遡る聖域で、黒曜石の全国流通ネットワークを持っていた海人と関わりが深い場所であり、諏訪下社の秋宮は、6世紀から、馬の力を背景に、この地を治めるようになった金刺氏の拠点ということになる。

 もしかしたら、金刺人は、洩矢氏と結びついて古代からの祭祀を継承しながら、安曇氏とも結びついて、馬の力のうえに水軍力を備えていたからこそ、朝廷に対して、諏訪の特別扱いを要求したのかもしれない。

 いずれにしろ、記紀の国譲りの物語は、はるか古代のことを伝えているのではなく、6世紀初頭の継体天皇擁立から7世紀後半の律令制の始まりまでのあいだの、隣国の新羅と対抗するための国の統一事業と重なっているのではないかと思われる。

 そして、神話の中の国譲りに関わってくる神々の聖域も、その時期に、新しく意味づけがなされ、特別なものとして地図上に配置されたのではないだろうか。そうでないと、幾何学的に厳密に配置されている理由が、説明できない。

 

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