第1254回 中央構造線上に古代の重要な聖域が並ぶ理由!?

中央構造線上の中郷流宮岩。

日本列島を南北に分断する中央構造線は、東の端の鹿島神宮茨城県)から、秩父を経て長野県の諏訪、愛知県の豊川稲荷三重県伊勢神宮、吉野から高野山四国山地、九州の高千穂まで、古代からの重要な聖域がズラリと並んでいるが、その理由を探求する際、一つの正しい答えを求めるのが、近代の学問的研究となるのかもしれないが、正解かどうかはわからなくても、中央構造線という地理的な事実を、古代人がどう真剣に受け止めていたかを考えていくことは、日本という国の深層を探るうえで欠かせないことのように思う。

 日本の国土は、四つの巨大プレートがぶつかり合うという世界でも稀な条件の中で成立しており、それがゆえの地震や火山などの自然現象も多く、この国土に生きていくうえで、この事実をどう受け止めるのかは、古代においても現代においても、大きくは変わらない。いくら人類が科学技術を発達させても、自分の思うままに自然を管理下に置くことなどできないのだから。

 長野県の諏訪大社の祭祀の中心である諏訪大社前宮から静岡県の浜松方向真に向かって伸びる国道152線は、中央構造線上を通っているため、地盤が脆くてトンネル工事も不可能な地帯があり、車が行き交うのも難しい狭い道や峠道が続き、国道ではなく酷道だと揶揄されるような道である。

 (中央構造線にそって国道152線が通る。赤いマークは、北から諏訪大社前宮、分杭峠大鹿村中央構造線博物館、安康露頭、中郷流宮岩)

 この酷道を走り、諏訪大社前宮から南に33kmほどのところにゼロ磁場として話題になっている分杭峠があり、さらに16kmほど進むと大鹿村がある。

 大鹿村中央構造線博物館は、まさに中央構造線の真上に建てられており、博物館の敷地内に、中央構造線を境にして大きく異なっている岩石を、わかりやすく配置して展示しており、日本列島を構成する岩石の分布を俯瞰的に見ることができる。

 中央構造線の北側は、花崗岩を中心に地中深くで生成された深成岩や、深成岩が高エネルギーで硬く変容した変成岩が分布し、南側は、太平洋の海底で形成されたチャートや石灰岩、堆積岩、玄武岩に代表される火成岩などが変成作用を受けて生成された緑色片岩などが分布している。北側は白っぽく陽の気配があり、南側は薄暗く陰の気配がある。

 大鹿村は、山中にもかかわらず塩水が湧き出ており、古代から塩の生産が行われてきた。特に長野の山間部で育てられていた馬などにとって塩分は重要だった。

 中央構造線にそって静岡の浜松から長野の上田までを通る国道152線は、もともと内陸部に塩を運ぶための塩の道なのだが、そのど真ん中からも塩が得られるのだ。

 国譲りでタケミカヅチに敗れたタケミナカタは、諏訪の地を出ないことを条件に許されるが、タケミナカタが現在の諏訪に入る前にいた場所が、大鹿村であり、ここに鎮座している葦原神社が、「本諏訪社」とされる。

 大鹿村から7.5kmほど南に安康露頭がある。ここは、中央構造線の境目が明確に露頭している場所であり、河川敷に立つと、中央構造線にそって流れる青木川に削りとられ河岸が、太平洋側から押し付ける地層と、押し上げられた地層に分かれているのが明確にわかる。

安康露頭。手前側の黒っぽい地層が、太平洋側から押し付ける大地。

 また、安康露頭から南に10kmの所には中郷流宮岩がある。これは2億年前の岩石だが、太平洋の遥か沖合の深海の底に降り積もったプランクトンの死骸が岩石化したチャートと、サンゴ礁など近海で生物の死骸が堆積して岩石化した石灰岩が交互に層になっていて、かつ、ぐにゃりと折りたたまれている。

 折りたたまれた原因は、太平洋側から押し付けてくるプレートの力によるもので、この形状を見るだけで大地のエネルギーを感じることができる。

 この岩は地上に出ているのは3分の1ほどらしいが、興味深いのは、この岩がある場所は、中央構造線の北側の領家変成帯側であるにもかかわらず、領家変成帯側には存在しないはずの岩だということ。

 チャートなど海底で形成された岩は、太平洋側から押し付けてくるので、中央構造線の南側の三波川変成帯などに存在する。

 中央構造線の北側は、押し付けてくるプレートの力によって、地中深くから持ち上げられた花崗岩など深成岩の大地なのだ。

 なので、この折りたたまれたチャート岩は、中央構造線の南の三波川変成帯に存在する山の上の方に存在していたが、大地震などによって、ゴロゴロと転がり落ちて中央構造線のラインを超えて、今の位置までやってきたものとみなされている。

 その距離はわずかだが、それほど、中央構造線をはさんで厳密に岩石の種類が違っている。

 特に中央構造線のすぐ両側は、押し付け合うエネルギーによって硬く変成した岩石が分布している。

 日本には数多くの磐座があるが、磐座は、単なる岩石ではなく、変成岩であることが多い。その理由は、単なる岩石は、いくら岩でも歳月の中で風化してしまうが、硬い変成岩は、風化せず、昔のままの姿をとどめ続けるからだ。中世の石庭でも、多く用いられている。

 ナイフで削ろうとしても痕がつかないほど硬く、長年の歳月を経てきた独特のオーラがあるため、古代人も中世の人も、この変成岩に特別なものを感じたのは当然だろう。

 中央構造線の南側の三波川変成帯や四万十帯北の岩は、暗色で異様な形を持ち、陰のオーラがあるのに対し、北側の領家変成帯の岩は、花崗岩など白っぽい岩が多く高貴で陽のオーラがある。

 その違いは冥界と天上界の違いのようなのだが、おそらく古代人は、岩石の質が明確に変わる中央構造線を、重要な境界であることを意識していた。

 地震国の日本においては、大地の下のエネルギーに鈍感ではいられず、とくに中央構造線は、地下活動が活発でもある。

 中央構造線上に位置する大鹿村の葦原神社が「本諏訪社」ならば、タケミナカタについて考える時、現在の諏訪湖の周辺だけで考えるのではなく、中央構造線のことを考慮に入れる必要があるのかもしれない。そうすると、「諏訪から出ないことを条件に」という意味も変わってきて、国譲りの真意についての想像の幅が広がる。

(出典*大鹿村中央構造線博物館)

 白く高貴な岩石の多い領家変成帯は、近畿は生駒山地三輪山から天理、鈴鹿山脈、そして瀬戸内海周辺の吉備、讃岐、伊予、安芸、北九州に広がるのだが、これらは、弥生時代後半から古墳時代にかけて、大きな勢力を持っていた地域である。

 そして暗くて陰々たる岩石の多い三波川変成帯や四万十帯は、四国山地、近畿では吉野から熊野にかけての一帯に広がるが、古代日本史において精神的に深い意味をもった地域で、祖霊のこもる根の国イザナミが赴いた黄泉の国、冥界であったとされるが、同時に、新しい生を受ける蘇りの地でもあった。

 これは一つの思いつきでしかないが、日本の古代において、ある時代までは、現世の営みにおいても、根の国=冥界のことが特に重視されていた。

 たとえば、縄文時代の竪穴式住居は、地面を掘り下げて作られ、その出入り口の地面の下に、胞衣(子供を産んだ時のヘソの緒や胎盤など)が埋められていた。もしかしたら、縄文人は、竪穴式住居と子宮を重ねていたかもしれない。夜、真っ暗な子宮内で眠り、朝、目覚めて外に出ることは、その都度、新たに誕生することを意味していたのだ。

 つまり、一人の一生においても、日々、生と死が交互に積み重なっていたのではないか。

 しかし、ある時期から、古事記で書かれる黄泉の国の物語のように、冥界は、恐ろしく不気味で穢れた世界とみなされるようになった。

 現世の災いは、冥界の祟りと考えられるようになり、その鎮魂の為の策が講じられるようになった。古事記日本書紀で語られる大物主の祟りは、それが象徴化されたものだろう。

 大物主は、冥界の主なのだ。

 そして、この時代、北九州、瀬戸内海の吉備や讃岐や伊予や安芸、近畿では生駒山地周辺から奈良盆地にかけての領家変成帯が、日本国内の秩序化において力を行使した人々の拠点となっていく。この領家変成帯の海人の活躍と、浦島太郎の伝承との関係は、第1249回のブログで書いた。

 そして同じ九州でも、南九州は、冥界と関わりの深い三波川変成帯や四万十帯であり、この地域の住人(海人)は、奈良時代以降は隼人と呼ばれるが、中央政府服従する形となり、悪霊退散の呪力があると信じられた犬の鳴き声のような吠声(はいせい)を用いて、朝廷の守護を行ったり、世の中を治めるための戦闘部隊となった。

 出雲の国譲りの神話は、現在、出雲大社のある島根県の部族とヤマト王権とのあいだの攻防というよりは、現世の秩序化に際してのパラダイムの転換を象徴化している話ではないだろうか。

 出雲大社の周辺からは考古学的な遺物は出土しておらず、神話上の記載とは別に、実際に出雲大社が神殿を伴った建物として存在したのは、7世紀末の斉明天皇の頃まで遡れるかどうかだ。

 島根の出雲地方は、ヤマト王権の拠点だった奈良盆地や河内から見て、夏至の日に太陽が沈む方向にある。

 古代、冬至は、春に向けた復活の日でもあり、重要視され、冬至のラインにそって聖域が配置されていたりするが、夏至の日に太陽が沈む方向というのは、暗い冬に向けた始まりを象徴化するから、まさに冥界に通じる方向である。ヤマト王権が、島根の出雲地方に対して、象徴的な意味合いを持たせて、冥界の主、大物主の聖域にしたとも考えられる。

 考古学的には、島根と鳥取の県境の大山周辺に、巨大な弥生遺跡である妻木晩田遺跡や、この地方ならではの四隅突出型墳古墳などが見られるように、一つの勢力圏であったことは間違いないが、同様の先進地域は日本列島の各地に残っており、群雄割拠の状態であったことは間違いないだろう。そして、そうした状況のなかから、一つの価値体系によって国内が秩序化されていくことになる。

 かつて島根の勢力が日本を支配していて、国譲りという戦いによって、ヤマトの勢力が、それに取って代わったということではないと思う。

 各地で様々な戦いが繰り広げられた後に、新しく秩序化を推進していく中心となった勢力が、神話的な形で、過去の世界と新しい世界の区別をした。それが、国譲りの神話という形になったのではないだろうか。

 そして、新しい秩序世界は、現世と冥界を明確に区別した。

 最後まで国譲りに抵抗したタケミナカタは、諏訪から出ないことを条件に許されるが、もしかしたら諏訪というのは、冥界と現世の境界を意味し、それは、本諏訪社とされる葦原神社が鎮座する大鹿村の位置する中央構造線をはさんだ領家変成帯と、三波川変成帯や四万十帯の境界に止まることを意味しているのではないだろうか。

 第10代崇神天皇の時代、大物主の祟りがあったと記紀に記録されているが、それを鎮めるために大物主の聖域となった奈良の三輪山の山中にはおびただしい数の岩石が散在しており、巨石の周辺から古墳時代の祭祀遺物も出土している。

 この三輪山は、花崗岩と斑れい岩という深成岩の山であり、中央構造線の北側の領家変成帯に位置するが、すぐ南には中央構造線が走る。

 大物主というのは、国譲りの後に冥界の主となったが、現世で災いが起こると大物主の祟りとされた。そして、その魂を丁寧に祀ることが、現世の平安につながるとされた。

 だから、中央構造線のすぐ北側の領家変成帯に位置する三輪山は、黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、黄泉比良坂を大きな石(千引石)で塞いだように、中央構造線の南に広がる冥界の出入り口を封じる象徴的な意味があるのかもしれない。

 中央構造線にそって古代の重要な聖域が並ぶのは、中央構造線の周辺に地震などの地下活動が多いために、それを封じるためという理由づけもわからないではないが、現世と冥界の境界でもあったという想定をくわえることで、壬申の乱(672年)や、南北朝時代(1337年〜)という日本が二つに分断された時、一方の勢力の拠点が吉野に置かれた理由などを考えていくうえで、何が正しいかはともかく、想像の幅が広がるかもしれない。

 

ピンホール写真で旅する日本の聖域。

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