国民は被害者なのか?

 今朝の朝日新聞で、東京裁判をはじめとする先の戦争について行った世論調査の結果が掲載されていた。

 調査された人の7割、とくに20代の9割が東京裁判の内容を知らなかった。そして、「東京裁判や戦争についての知識の少ない人ほど、今の靖国神社のあり方を是認する傾向がある。歴史を知らずして、過去を判断はできない。まずは歴史と向き合うこと。東京裁判60年を機会に、改めてその重要性を考えたい。」との朝日新聞の主張があった。

 戦争の痛みを忘れる=再び戦争を始める。だから、戦争の痛みを伝えなくてはならないという論法はわかりやすく、納得もしやすい。しかし、同じ痛みでも、被害者意識としての痛みと、加害者の悔恨の痛みでは、大きな違いがある。

 戦争の痛みをどう捉えるかによって、これからの展開は大きく変わってくるのではないか。

 私が今朝の調査発表で気になったのは、東京裁判を知っているが多いか少ないかではなく、あの戦争で被害を被ったのは国民であると考える人がとても多いことだ。

 「大勢の国民は一部の指導者に騙されて戦争に巻き込まれたから、被害者は国民だ、悪いのは政府であり、軍部であり、指導者だ」という思考を、多くの人が持っている。そうした国民意識に受け入れられるように、「二度と戦争を起こさないために、政府を監視しなければならない!」と主張する人が、マスメディアの周辺には多い。

 しかし、この論理は、「われわれ国民が二度とあのような被害に合うことを避けなければならない、我々の獲得している我々の平和を守らなければならない」という考えに結びつくものとなる。

 こうした考えは、自分自身を反省したくない多くの国民に媚びたものにすぎないと思う。

 自分達の繁栄や安定を守るための平和は、平和のために他を犠牲にしてもやむを得ないという発想と裏表ではないだろうか。

 自分たちが繁栄と安定を維持できている時は、他を犠牲にしてまでという発想にならないかもしれないが、それを維持しにくい苦しい状況になった時が問題なのだ。繁栄と安定の為の平和、という論理に、その苦しみを超越する思想が秘められているとは思えない。

 高速道路建設の問題でもそうだけど、多額の負債があっても、なかなか新規の建設が中止にならないのは、政治家個人の権益だけが原因なのではないだろう。全体の問題よりもまず自分たちのことが大事で、自分たちの状況が整ってから全体のことを心配する。そのように考える多くの人々に支持される政治家が、その支持に基づいて行動しているからだろう。つまり、他の部分は中止し、自分たちの所だけは建設してもらいたいというのが、多くの人の心理ではないだろうか。

 

 問題は戦争に限らない。あの戦争の後、日本は軍事戦争を起こしていないが、自分たちの繁栄と平和のために、他国を犠牲にしていることが、あまり伝えられない。

 以前、パプアニューギニアに行った時、日本の林業系の会社が進出し、住民から山を買い取り、大量に樹木を切りだしていた。そのように自然環境を破壊するだけでなく、その国の経済環境を大きく歪めていた。それまで土地を耕して得た作物の物々交換で生きていた人々に、土地の見返りに現金を与え、現金を手に入れた人たちは、自動車を買ったり外国製品を買ったりして、消費文明に巻き込まれる。しかし、その現金はいずれ底をついてしまう。そうなった時には自分の土地は無くなっていて生活を成立させる手段がない。そして一度覚えた消費文明の味が忘れられず強盗集団の一員になる人間が増える。

 また、村には、村民の心を懐柔するために日本の企業が建設した病院や学校があったが、教師も医師もおらず、ただの建物だけであった。にもかかわらず、パプアニューギニアを未開の野蛮な地域とみなし、そこを文明化するために日本が手助けをしているかのようなイメージが作りあげられる。

 地域性を考慮し、時間をかけて少しずつ変わっていくのならまだしも、こちら側が一方的に作りあげた方法をステレオタイプ的に急激に相手に押しつけることを、「開発援助」という言葉でカムフラージュする。相手側の構造をこちら側の構造に合致させることで一番メリットがあるのは、こちら側なのだ。日本はそうしたことを、実に巧みに行ってきた。それを巧みに行えたから、戦後の発展があった。誰も悪いことをしているなんて意識は持っていない。それを良いことだと信じ、自分に与えられた使命に基づいて一生懸命に働いてきた結果なのだ。

 最近話題になっている企業の雇用の問題にしても、正社員採用を控える「企業」を、自己都合的と攻撃する論調もある。でも、その自己都合的とされる「企業」というのは、「企業」という実体がどこかにあるわけではない。また、経営者の個人的なエゴとして存在しているわけでもない。その企業が行うことの全ては、企業を守ろうとする集団の意識が、経営というフィルターを通して外在化したものにすぎないのだ。そこで働く社員をしっかりと守れるということが、結果的に、その会社にとって優秀な経営者ということであり、外の人間のことは二の次になる。つまり、企業のエゴというのは、そこで働く社員全員のエゴであると認識していなければならないと思う。

 テレビ局から多額の報酬を得ながら、今日のテレビのあり方を批判する人もいるが、自分が得ている報酬は、今日のテレビのあり方(広告収入に頼る構造ゆえに、必然的にそうなってしまうこと)によって生み出されているものであるという自覚が必要だろう。

 先の戦争において、防衛戦争だったか侵略戦争だったかなどという議論も生じているが、防衛戦争の意味は、他国の侵略に対する防衛というより、国民の権益を防衛するという意味で使われるべきだし、侵略戦争という意味も、上層部のエゴによる他国への侵略というより、国民の権益を拡大するための侵略という意味で使われるべきだろう。

 「先の戦争で日本はアジア諸国に対して、加害者であった、加害者意識をもっと強く持つべきだ。」と強く主張する人がいるが、「日本」を、指導者と、騙された日本国民と二つに分けて考え、悪いのは指導者であるという論法だと、何の解決にもならないのではないか。

 国民が意識しようがしまいが、国民全体のエゴを代弁しているのが政治なのだ。だから、国民が加害者なのだ。加害者であったけれど、形勢が不利になって流れが変わったから、国民の被害が大きくなったのだ。その際、国民全体のエゴの責任を、一部の人が大きく背負う結果になった。それが沖縄であり、広島なのではないか。沖縄や広島は、政府やアメリカの横暴によって悲劇的な場所になったのではなく、それ以外の無数の人々の無意識の塊が生みだした罪業の反動が、そのことに何かしらの形で関わった全体に万遍なく分散されず、一極に集中してしまったからこそ、あの悲劇が引き起こされたのではないか。つまり、沖縄や広島は、十字架上のイエスのように、それ以外の人間全体の罪を贖うための生け贄として記憶されなければならないのではないか。

 戦争反対を叫びながら、国民こそが被害者であるという主張に、私は違和感を覚える。

 被害者であるという自己都合的な記憶よりも、加害者としての悔恨の記憶を根づかせ、繁栄と安定の為の平和という自己都合主義を認識した上で、それに変わる摂理を何とか見出そうと努力して生きていくしかないのではないか。

 今日のように、一方的に物を消費することが生きることであるかのような価値観のなかに生きていると、それが順調であるかどうかが、良い社会かそうでないかということになり、その状態を維持するために、多くの人が奔走することになる。

 国家も企業も個人も、生きて継続していくかぎり、自分の側のエゴを完全に消すことはできない。しかし、そのエゴを自分も他者も含む大きな円還のなかに位置づけていく方法がどこかにあるのではないか。

 それができなければ、自分の状況が悪化した時、自分の平和を守るためという大義名分で、また同じことが繰り返されるのではないだろうか。

 「風の旅人」の20号(6/1)〜21号(8/1)では、上に書いたことを少しは意識して制作したいと思う。