テキストとしてではなく、体験を!

 4月25日のエントリーにfrageさんが書き込んでくださった内容は、私にとって、とても嬉しく、有り難い言葉です。

 私は、「風の旅人」を読み物やテキストとして作るつもりはなく、frageさんが仰ってくれたように「体験」の媒介として存在できることを願っているからです。

 ですから、以前、出版業界の人に、白川静さんの巻頭の扱いがワンパターンであると指摘を受けた時などは、とてもショックを受けました。それは、「風の旅人」に対して下された評価に対してショックを受けたのではありません。私は、白川さんの肉筆の中に籠められた気迫を大事にしようとして、下手な演出を極力避けていたのですが、“気迫”というものに感応せず、そこに書かれた知識内容のみを読み解こうするスタンスが、今日の言語メディアの多数を占めていることを改めて思い知ったからです。白川さんのあの文字に対してすら「マンネリ」などという感覚で接せられると、他にどういう方法で「知識偏重世界」に抗えるのかと呆然としました。

 「風の旅人」に多少の関心をもってくれている人でもそうですから、そうでない人は、なおのことでしょう。

 「風の旅人」のことを知っている出版関係者と会うと、必ず言われるのが、「贅沢で豪華な雑誌ですねえ」です。100人に会うと、90人以上はそう言います。

 見てくれの部分ばかり見られているようで、「質の高い雑誌ですねえ」などと言われたことは一度もありません。

 制作費や印刷費にお金がかかっているように思われていますが、私が一人で編集していることもあって、実際には多の雑誌よりも低コストで作っているのですが、出版関係者の多くは、「お金さえあれば、こういう雑誌を作れるんだけどね」というニュアンスで、話します。

 編集者のなかで「風の旅人」に関心を持っている人でも、豪華とされる執筆者の単行本化の素材探しのためだけに関心があるみたいで、連載がはじめった途端、電話をかけてきて、「単行本化の予定はあるのか? もしなければウチでやりたい」と確認してくる編集者も多くいます。単行本のための素材探しが自分たちの仕事のようなんです。 

 出版や新聞など言葉の業界人ほど、「読み物」とか「テキスト」としての役割を本とか雑誌に求める癖がついているように感じられます。学者の多くもそうだと思いますし、いわゆる読書好きの人も、そのような傾向が強くなっているのでしょうか。

 そこに表現されていることを「知識素材」や「慰みもの」として扱う。つまりそれは、既に小さくまとまって整ってしまっている自分自身の器(思考特性や行動特性)をそのままにして、モノゴトと接し、知識情報を蓄えるという態度です。こうしたスタンスは「読書」に限らず、「旅行」でも言えることです。初めての海外旅行は、見るもの触れるもの全てが生身の体験になる。つまり、自分の思考特性や行動特性が変化してしまう可能性のある体験となる。しかし、慣れてしまうと、自分の器(思考特性や行動特性)をそのままにして、多少の変化と刺激を求めるにすぎないものになる。見るもの、触れるものに対して、傲慢になってしまう。

 毎日のように伝えられる世界中の様々な悲劇もまた、個人の体験にならないし、だからこそ記憶化されない。自分の情報ボックスのなかにテキストとして整理されるだけのものになる。その思考特性のままで、「愛国」とか「日本の伝統」とか「平和」が植え付けられることがよくないのだと私は思います。

 なぜなら、それらは頑迷な自分の器はそのままで、自分のための「愛国」と「伝統」と「平和」を主張するにすぎなくなるからです。

 しかし、そうした風潮に批判をくわえる最近の学者もまた、その論法は、様々な数字データを出して、現在の世界がいかに「平和」でないか説明する。そして、こうした状況を乗りこえるために、「他者を尊重する共生の思想」が必要だとまとめる。こうした論法を聞かされると、誰しも頭では納得する。しかし、自分の中の何かが変わるわけではない。なぜなら、そこで論じられる言葉も、テキストと知識に過ぎず、読み手の体験となるものではないからです。体験とならないから、思考特性や行動特性も変わらない。変わらないのはダメだから変えなくてはいけないと無理強いをしても、自分に都合が悪くなると、元に戻す。それ以前の問題として、本当の意味で共生とは何であるか、それを実現するためにどうすればいいのか、自分の生身の体験として実感できない。実感できていないから無理が生じる。そのようにして、「テキスト」と「知識」ばかりが高く積み上げられて、ますます大事なことが見えにくくなる。

 体験というのは、自分の思考特性や行動特性に変化が生じ、それまで当たり前だと思っていたことが、実感として当たり前と思えなくなってしまうようなことであり、そういう体験は、旅でもそうですが、「骨の折れること」を通さずに得ることは難しいと思います。

 体験というものは、frageさんの言うように、共、擦、疑、反、揺、合、念、願という渦巻きのなかに「自分」が加わり、幾通りもの得体の知れないものを自分の中に発見すること。それは、喜、不安、疑、希、光、闇、或いは対照的なものではなく中間の薄い層のようなものかもしれない。その層は、言葉によって簡単に明瞭に説明できてしまうものではないけれど、自分の思考特性や行動特性を自分の内側から変容させていく力を持つのではないかと思います。

 本当の意味で「質」というのは、このような体験を通して自分に働きかけてくる感覚だと思います。つまり、「質」がわからないというのは、「体験」の感覚がわからないということではないかと思います。

 そして、「質」がわからないから、豪華さとか見てくれが基準になってしまう。

 今日、“質”というものに対する定義が、「高品質」という言葉で表現されるように、豪華で高価であるとか、丈夫で長持ちとか、種類が豊富であるなどと、知らず知らず数値化できる内容にすり替えられています。さらに、ブランド品のように、「高品質」のイメージ化によって、実体としての「質」がまるでわからなくなってしまっています。

 そうした傾向は、旅行など形のないものでもそうなっています。

 しかし、いろいろな旅を時を経て思い出す時、自分にとっていい旅だったと思えるものは、豪華さとか、多彩さなどといった基準ではなく、「質感」がよかったかどうかでしょう。そして、その「質感」がよい旅というのは、いろいろと苦労していたり、失敗して落ち込んだり、人に助けられたり、その世界のなかに自分が加わっていて、体験が生々しいものです。豪華な部屋の窓から絵はがきのような風景を客観的に眺めるばかりで、現地の人と触れあわなかった旅で、質的によかったと実感できるものは少ないのではないでしょうか。

 読書もまた、「旅」と同じでしょう。後から振り返って、質的によかった、つまり、自分の中の何かが変化したと感じられる旅を誌面で実現したいものです。そういう意味で私は、「風の旅人」の表紙に、「心の旅に誘います」と書き続けているのです。旅行の情報雑誌でもなければ、知識のためのテキストでもないですよ、というメッセージをこめて。