「愛国心」という言葉もそうだが、言葉で固定してしまうと偽物になってしまうものがたくさんある。「愛国心」と一繋がりに語られる可能性のある「日本の伝統」とか、「日本の精神」という言葉もそうだろう。
太平洋戦争の失敗を通して、「愛国心」や「日本の伝統」や「精神」という言葉の固定化が、ナショナリズムに簡単に結びついてしまうこの国の体質を知る人は、戦後、そうした言葉を避けてきた。
その結果として、道徳やモラルが失われたと主張する人たちが、近年になって声を大きくしてきている。いやそうではなく、昔から、そうした主張をする人は大勢いたのだけど、時代の空気が、それを求めなかった。最近になって、政府が「愛国心」のことを堂々と口にできるのは、国民がそれを受け入れる気分になっていることの反映なのだと思う。数字というのはあまり当てにならないけれど、先だって、教育のなかに「国を愛する気持ち」の養成を盛り込むという方針に50%の人が賛成しているという世論調査が発表されていた。
賛成か反対かの二者択一の極端な分析。圧倒的多数の人は、「どちらとも言えない」という感覚なのだろうけど。
大きな問題が起こらず、平安の状態が続いている間は、「どちらとも言えない」でよかった。しかし、選挙などに象徴されるように、「どちらとも言えない」態度は、投票を棄権することにつながる。しかし、棄権をすれば、組織票(既得権益にしがみつこうとする意志の塊)を多く持っている方が優位になるだけのこと。そういうことがわかってきたから、無理にでも二者択一で選択しなければならないと思ってしまう。
そういう状況のなかで生きていて、「どちらとも言えない」と傍観するのではなく、かといって、意に添わない二者に限られた選択でもなく、第三の道が無いものだろうかと考える。政治の世界に限らず、現代社会には、その類のケースがたくさんあるように思う。
誰しも、愛とか道徳とか精神は大事だと思うが、それを強制されるのは御免だという感覚がある。しかし、それを避けて通ろうとするから、この国の精神が荒廃するのだと主張する人もいる。実際に、荒廃している現象が連日報道されるから、それに同意する人も増え続ける。そして、そうした傾向に反対する人もいるにはいるが、現状を変えうる何かを示すことができないから、説得力を持てない。
「賛成」でも「反対」でも「どちらとも言えない」でもなく、「これだあ!!」と率直に感じられる選択肢。しかも、その「これだあ!!」が、人に強要するものではなく、あくまでも自分の実感として自分ごととして感じられるもの。それを見つけ、形にしなければならないと思う。
しかし、それはいったいどういうものなのだろう。
一つ言えることは、モノゴトを表層的に型にはめて、頭の中であれこれ考えたり、説明するだけで得られるものでないということ。
最初に、頭のなかで設計図のようなものを決めて、そのなかにモノゴトを流しこんでも、最初の段階で決めた設計図を超えることができない。
予め存在している楽譜に添って、ただ音を奏でるだけでは、心を動かす音楽にはならないだろう。
ジャズセッションのリーダーが、ちょっとしたメモ程度のものをメンバーに配る。そして、最初のフレーズを吹く。その息吹きのようなものがメンバーに共振して、次々とアドリブが重なり合う。楽譜から唐突に離れたり近づいたりしながら、まさに神のみぞ知るという感じで、自分達が考えてもみなかった、同じことを二度やれと言われても絶対にできないような、聞く人の心に強く働きかける感動的な演奏が生まれる。
その音楽は、「答え」ではなく、一つの稀有なる「体験」だ。
そういう「体験」は、いったいどのようにして、どこから生まれてくるのか。
音楽の場合、そういうものがあることが経験的にわかるが、自分の人生において、一つの稀有なる瞬間は、いったいどういう状況で、どういう心構えにおいて、可能になるというのか。
それとも、そんなことは不可能で、不可能だからこそ、息抜きや気分転換のために、素晴らしい「音楽」が求められるのか。「音楽」は、息抜きや気分転換の材料にすぎず、自分の人生そのものとは共振していかないものなのか。
実は、こういう考えそのものも、西欧化のなかで知らず知らず染みついた思考の癖なんだろうと思う。
人間誰しもそう感じたり考えるのではなく、ある種のバイアスによって、そう感じたり考えるようになってしまっていると私は思っている。
もしかしたら、過去において、たとえば農業などに従事している人は、理屈なしに人生を音楽そのものと感じていたかもしれない。今日の我々の感性とか思考特性や記号的な言葉によって、農業や歴史を分析したり説明しても、肝心なところは何もわからないだろう。
「祝」という言葉一つをとっても、その受け止め方はまるで異なるのではないかと思う。
とくに俳句や短歌など、今日的に学者が分析するものと、それらが作られた時の感覚はまるで異なっているのではないかと想像する。映像文化が溢れる現代と、それが無かった過去と比べると、「言葉」の持つ映像喚起力がまるで違うのではないかと思うのだ。俳句や短歌の言葉を聞いた時に、心に浮かぶ風景映像の鮮明さや奥行きは、今と昔では桁外れに違うだろう。(俳句や短歌は、今日的には言語表現と解釈されるが、もしかしたら、当時は、映像表現に類するものだったかもしれない。)
といって、同じ人間だから、過去と今で意志疎通ができないと断言できるものでもないと思う。
世界と自分との回路の作り方によって、意志疎通ができる可能性があるのではないか。
私が、「日本の精神性」を切り口に「風の旅人」を作っていきたいと言う時、「日本の精神性」というテーマで、執筆者に、「日本の精神性」を説明していただくことを意図しているのではない。
世間から押しつけられて知らず知らず染みついてしまっているお仕着せの方法で世界と付き合っている人ではなく、自分ならではの回路で世界と付き合っている人が、自分の回路に引っかかってくる様々なことを織りなすことで、自然と、何かしらの精神性が浮き上がってくる。その人が日本人であれば、そこにできるものは、秘められた日本の精神性の一つの側面と言えるものなのだ。
大事なことは、自分の回路を通じて自分の中に入ってくるものを自分の言葉で語ること。入ってくるものにも出ていくものにも、充分な厚みがあること。
自分の言葉のつもりで、実は、人から借りてきた言葉を使っているにすぎない人は多く、そういう人の言葉が誌面に増えると、「日本の精神性」をテーマにするといいながら、実のところそうはならず、今日的に啓蒙され記号化し形式化している「日本の精神性」や「伝統」を表層的になぞるだけのものになってしまう。それは、「日本の精神性」とか、「日本の美」というタイトルをつけたカタログにすぎない。カタログ的に着物や陶器や絵画や書を、「伝統」とか「美」と称して紹介する雑誌は、有料、無料を問わず、巷に溢れている。
私は、「日本の精神性」をテーマにしたいが、表紙タイトルとして、「日本の精神性」という言葉を使わないだろう。全体と微妙に響き合えるタイトルを考えなければならない。大上段から「日本の精神性」を語って、その言葉に閉じてしまうのではなく、その「言うに言われぬもの」を浮かびあがらせ、解放したいからだ。
好き勝手に表現することは、別に悪いことではない。誰かの上書きよりも、本当の意味で好き勝手をやる方が格段に難しい。自分では好き勝手にやっているつもりになっていても、人から見れば、どこにでもあるものにすぎないことが多い。
真正面から本気になって好き勝手をやらなければ、予め決められ、知らず知らず啓蒙され、染みついた概念を超えることはできない。そして、本気のものは、たとえ表層ではテーマと異なるように見えて、深いところで共振するものがある。概念でモノゴトを見てしまうと、そこがわからなくなるけれど、感覚として受け止めれば、きっとわかり合えるだろうと思う。