小栗康平監督の「埋もれ木」を見て

 昨日、立教大学で映像/身体/心理の統合を学ぶ現代心理学部の一般講座で行われた小栗康平監督の「埋もれ木」の上映会と、鼎談を見に行く。

 これだけ立派な上映設備があり、学生は恵まれていると思うが、残念ながら参加している学生は30名ほどで、学部全体の1/10ということだった。

 「埋もれ木」の上映を見るのは3回目で、それ以外にDVDで一回見た.何度見ても飽きず、見るたびに新たな発見がある。発見といっても何か言葉で定義づけられる答えを見つけるということではない。映画を見るたびに自分のなかに新たなディティールが積み重ねられて、簡単には手が届かない真理に向かって少しずつ近付いて行くような予感が与えられるのだ。

 そういう言い方をすると、「ならば真理とは何なのだ」と、これまた簡単に定義づけられるような言葉を求める人もいる。「真理」ではなく、「本物」という言葉にしても同じだ。

 「真理」にしても、「本物」にしても、言葉で簡単に定義づけられるようなものであれば、それはもはや「真理」でも「本物」でもないし、ディティールを積み重ねて映画や小説をつくりあげる必要もない。

 「真理」や「本物」を、簡単に定義づけられないのは、それそのものが、言葉で簡単に定義づけて固定しようとする行為と正反対の行いである継続的な時間の中の無数のディティールの積み重ねによってのみ生じてくるものだからだと思う。

 たとえば、稲を育てることを例にとれば、稲の正しい育て方を言葉にすることよりも、正しく育てる行いを継続的に積み重ねる方が、圧倒的に難しい。この場合の、「真理」は、稲が正しく育つか育たないかという明確な形によって現れる。稲を正しく育てるためには、行うべき時に行うべくことを行い、周辺の様々なことに配慮を施し、時には天に祈り、諦める時には諦め、それでも天命の前に自分にできることを最善のところでやろうと粘り、そうした行為の積み重ねによってのみ可能になる。

 稲作りと映画作りや芸術は、同じ人間的行為としてまったく別のものではないと私は思う。

 そう思う私は、小栗さんの映画のディティールは、数重ねられた思考と行為の賜物であり、さらに全体として、そのディティールが無限に足し加えられていくように感じるのだが、上映後のトークで、大学の先生から小栗さんの映画は引き算であるという話しが出た。

 何をもって足し算か引き算かと論じるのは、まあどうでもよいことなのだが、それでも敢えて言うとすれば、ドキュメント映画の場合、目の前にあるものを敢えて撮影しなかったり、撮影したものを敢えて編集でカットしたり、引いていくことによって何かを浮かびあがらせるという作り方はあると思う。しかし、小栗さんの映画作りの場合、最初は何も存在しない。そこから全てが創造される。屋根裏を這うヤモリ一匹であれ、たまたまそこにいたものに自分の潜在意識が呼応してカメラに収めるのではなく、そこにヤモリが必要だと判断して、ヤモリを創造するのだ。生きたヤモリをどこかから連れてくるか、CGで作り出すのかの違いは大きな問題ではない。フィルムのなかにそれを作り出すという判断が、稲作りで例えるならば、その場しのぎの対応で結果的に稲を傷めるものになってしまうのか、稲にとって最善の行いであるかが問題になる。

 そのように苦労して作り上げた米や映画でも、この消費社会では、上手いか不味いかと鑑定する権利は自分の側にあるという消費者意識がはびこっている。だから、それに乗じて、その案内人を仕事にする人も多くなる。そうした案内人の立場に自分を置いても、物事をミッシェランのように権威の立場を利用して星勘定で裁定することに対する傲慢さを知り、本物か偽物かという言い方にも慎重になり、消費者が自分の目で判断できるような材料をいろいろ揃えようとする人もいる。食料品の品質表示みたいに。

 それはそれで誠意ある態度なのだと思うが、何か大事なことが欠けていると思う。

 そういう配慮は、作品に対してフェアであり、かつ消費者の利便にそったものだという言い方もできるが、それをやればやるほど、生産者と消費者という消費社会の対立構造を強化することになるのではないか。

 また、案内人の「知識」による品質表示を簡単にできない類のものがあるのだが、品質表示がなければ、市場に流通することすらできなくなる。小栗さんの映画もそういうものだ。

 小栗さんの映画は、「埋もれ木」にかぎらず、寡黙である。台詞も抑えがちで、大仰なところがどこにもない。画面も、暗めである。そうした印象が、「引き算」ということになるのだろうが、暗い部分はただ黒なのではなく、そこに敢えて作られた様々な小物がきっちりと配置されている。見えるか見えないかのところまで配慮されたその全体の秩序こそが、美しい。それはとても贅沢な作り方であり、見る側にとっても、とても贅沢な時間なのだ。

 筋立ても、劇的でわかりやすいドラマ展開があるわけではなく、ごく当たり前の人たちの、ごく当たり前の生活が、淡々と続く。ごく当たり前の生活の細部、人と人との間合いが、光の微妙な綾のように、見る側の心に揺らめきながら美しくしみ入る。

 そうした「時間」とか「空間」は形なきものだから、品質表示には一番不向きなのだ。だから、多くの評論家や学者は、知識体系による言葉で小栗作品を語ることができない。敢えてやろうとすると、画面比率が標準かワイドかなどということや、役者の配置など、表面的なことになる。

 こうしてこれを書いている間、私の手の下には、花梨の無垢の木のテーブルがある。その木目のパターンは、それを簡単に真似することができない複雑精妙な美しさであり、どの部分をとっても、そこだけで見事に完成している。

 このテーブルと私の関係は、消費する側とされる側、鑑賞する側とされる側という関係を超えている。その存在感や質感とともにあることの時間が、かけがえのないものと感じられる。

 この存在感や質感を与えてくれるものは、自分にとって間違いなく本物であると思う。そして、「埋もれ木」を見ている時の、時間と空間もまたそれと同じものだ。

 評論家や学者の言葉による定義付けの品質表示ではなく、この存在感や質感を自分の心身で感じ取れることこそが、自分にとって貴重なのだ。その貴重さは、消費物として有用か否かではなく、それとともにある「時間」や「場」の豊かさを実感できることだ。

 消費者意識が強すぎると、社会環境(職場環境、家庭環境も同じ)というものに対しても、どこかに存在している「環境の作り手(生産者)」側から一方的に与えられており、それを裁定し、選ぶ権利が自分の側にあるような錯覚に陥る。そして、本来その種類を選ぶ権利が自分にある筈なのにそれができないということに、不満をおぼえる。

 「時間」や「場」は、与えられるものではなく、自分との関係において生じるものだろう。

 また、「本物」との出会いは、自分にとっての「本物」を求め続けようとする気持ちのベクトルの延長にしか、あり得ないと思う。「本物」は、人間の定義のなかにあるのではなく、出会いとともにあり、出会いのためには、自分の側にも準備が必要となる。そして、幸いなことにその出会いが生じた時から、「本物」の手応えが、自分のなかに宿り続ける。

 「本物」が自分のなかに宿り続けるという体験がない人には、「本物」はわからない。「本物」は、言葉の定義で明らかにできることではなく、体験でしかない。その体験を言葉や映像などの表現行為で伝えることはできる。表現行為で伝えられた体験を通じて、他者もまた、それを体験することは可能だ。とはいえ、それは簡単なことではない。それがわかるからこそ、芸術家は、苦難の上、美しい木目のような気の遠くなるほどのディティールを積み重ねて創造行為を行うのだろう。

 

 メディアやアカデミーなど、情報伝達の川上にいる人たちは、「定義」の伝達(賞もまたしかり)を得意とするが、「体験」を伝えていくのは、あまり得意ではないようだ。

 今回の小栗監督と行われたトークでも、過去の作品の「撮影手法の狙い」とかの話しに流れてしまって、小栗さんの映画体験と今日のテレビなどの映像体験との違いという話しは展開していかず、そこに至らなければ、今回の討論のテーマである、映像技術と「物の見方、見え方、感じ方」という映像体験との関係の議論につながっていかない。すでに若い人を中心にテレビ離れが著しく、ユーチューブのような新たな技術と映像体験の時代に移行しているのだが、本などからの知識で物事を考えて語る学者の人たちは、常に、「誰かが本に書いてから」という後付けで時代や作品と付き合って行くしかないのだろうか。

 小栗監督の映画は、定義付けはできない。美しい木目のように定義付けを拒否するディーティールの豊かさに満ちている。そして、定義付けが難しいから、難解だということになる。「カンヌのグランプリ受賞!」などと簡単な定義付けができるニュースがあれば話題にできるが、それがなければ、簡単なキャッチコピーが好きなメディアや、体験を通して語ることが苦手なアカデミックな評論家は無視するしかなくなる。結果として、あまり世間に知られないままに終わってしまう。こうした構造にがんじがらめになっていることが、現代の不幸なのだと思う。テレビ、新聞、大学など一方向の情報・知識伝達の構造は、それを守ることで自らの権威を保ち得る人にとって、崩したくない砦であるだろうが、そうした状態はいつまでも続かない。なぜなら、その構造から得られるものが、テレビであれ、大学の講座であれ、あまりにも表面的でつまらないものになっていて、そういうことを既に多くの人が感じていることは間違いないからだ。

 作家や映画監督は作品を評価されることがあたりまえで、その緊張感のなかに常にいるが、作品を分析して論じることを仕事にしている評論家や学者こそ、その在り方や行いをもっとシビアにジャッジされなくてはならないのだろうと思う。