第1395回 聖域の求心力

文化人類学における誠実な研究者は、異文化世界を理解するために、外から客観的に分析するのは自分が属する世界の基準を異文化世界に押し付けるだけだと弁えている。

 しかし、歴史の探究においては、どうだろうか?

 文化人類学の場合は、フィールドワークで異文化を実体験することが可能だが、歴史においては、それができないため、そこに壁ができる。その壁のことを意識すらしていない人は問題外で、誠実な研究者は、その壁をいかにして無くすかを考えているだろう。

 一般的な歴史探究は、発見された物や、残された記録を事実証拠として分析研究がされていく。そのため、新たな物や新たな記録が見つかるたびに歴史の教科書を書き換えなくてはいけない。(現代の教科書は、追いついていない)。

 物や記録は重要だが、物や記録を主にするのではなく、物や記録が残されている場所の特性を知ることが先で、その特性は、時代を超えて、大きく変わっていない場合が多い。

 その特性において重要になってくるのが、自然風土、なかでも地理や地勢や地質だ。

 たとえば東京であっても、井の頭公園善福寺公園などの湧水は、石器時代から湧き続けており、そこを源泉とする神田川善福寺川の流域には、石器時代縄文時代の遺跡が多く残っている。

 この二つの川が合流する場所の近くに鎮座する杉並区の大宮八幡宮は、東京では明治神宮靖国神社に次ぐ広大な境内を持つ神社だが、すなわち、明治維新以前は、東京で一番大きな神社だったということで、この境内には、弥生時代後期に作られた方形周溝墓が三基見つかっている。

 ここは、もともとは、弥生時代の墓が聖域であり、周辺は、石器時代から人々の営みの拠点だった。

 大宮八幡宮は、平安時代清和源氏源頼義が東北の反乱を鎮圧するために派遣された時に、この地で、八幡大神の守護を受けたことが創建につながっているが、実際に神様が現れたというより、この聖域を大切にし続けている人たちの助力を受けたのではないかと思う。

 聖域というのは、必ずといっていいほど前の時代から大切にされてきた場所であり、特に日本においては、新しい支配者に変わったとしても、古い聖域を破壊してしまうということを行っていない。祟りを怖れたためとも考えられるが、現実的な側面としては、聖域を求心力とする結束のある集団がいて、その集団と敵対するのではなく、手を結ぶことが選択されたからだと思う。

 中世においては、大寺院に属する仏教徒が、武将たちの戦いの最中で、一つの大きな勢力となっていた。

 聖域というのは、今ではその磁力が失われている場所であっても、かつては求心力の場であり、なぜ、その場所に聖域が築かれたのかということを考えなければ、歴史の真相に近ずくことができない。

 そして、特に強い求心力があった聖域は、神話が作られた時代に、象徴的な物語として神話に組み込まれた。

 神話というのは、過去から伝えられてきた伝承を、ある一定の時期に総合的にまとめただけではない。その時点で、取捨選択が行われ、編集がされているわけであり、何かしらのビジョンがなければ編集できない。

 それについては、陰謀論の好きな人たちが、体制側が自らを正当化するためにやったという言い方をしがちなのだが、そうとは限らない。

 たとえば旧約聖書の中のノアの洪水のような伝承は、それ以前のメソポタミアの伝承に幾つも残っており、旧約聖書の編纂者が、その伝承を、明確な意図をもって自分たちの物語に組み込んだ。

 それは、自分たちの組織を正当化するためというより、彼らが覚った歴史の法則を自分たちの運命に重ね合わせて、救済への道筋を見出すために、説得力のある物語が必要だったのだ。

 旧約聖書が示す歴史の法則というのは、それまで神に従うのみだった人々は、ノアの大洪水という自然の猛威を受けたため、神に従うのではなく自分たちの手で困難を乗り越えていく選択をした。その結果、産業技術を発展させ、バビロンの塔を築いた。

 中世のヨーロッパで、ペストによって人口の半分以上を失った人々が、人間復興のルネッサンスを経て、神離れをしていったのと同じだ。

 古代においても、神離れをした結果、人間は傲慢になった。それまでは神の声に耳を傾けていたが、万物の尺度を人間に置くようになった人たちは、好き勝手なことを主張し、人を論破することだけを目的とする詭弁家(ソフィスト)が多く登場し、言葉が乱れた。(古代ギリシャでも古代中国でも同じ)。

 その必然の流れとして、ソドムとゴモラの頽廃の時代となり、そうした人間を万物の尺度とする世界を離れて、神の声に耳を傾けるアブラハムが登場するという流れ。

 古代ユダヤ人は、自戒をこめて、こういう物語を創造した。自らの正当化のためではなく、自らの生き方を整え直すために、神話が創造されたのだ。

 日本の神話においても、そのように捉え直すことができる。

 日本の神話の中では、「神の声を聞く」ではなく、禊や祓いが重要な鍵になってくる。自らを清め、穢れを取り除くこと。

 そして、日本の場合、古代において強い求心力があった聖域で、神話の中に組み込まれた場所として、出雲、諏訪、吉備といったところがある。

 ヤマト王権とこれらの地域の対立が神話に描かれていると考えている人が多いが、そうではなく、神話を創造する必然性があった歴史の転換期(西暦500年以降)に、それらの聖域が、聖書の中の「ノアの洪水」のように、象徴的な意味をもって、神話の中に組み込まれたのだ。

 ノアの洪水が、旧約聖書の中に描かれているからといって、これをユダヤ人の上に降りかかった悲劇だと考えて、その歴史的エビデンスを探そうとすることは、あまり意味がない。

 それは、日本神話の中の出雲や諏訪のことについても同じだ。

 出雲や諏訪を取り出して分析するのではなく、神話が創造された時代の必然性のなかで、出雲や諏訪の物語が意味するものを考えることの方が大事だという気がする。

 今回、制作した「始原のコスモロジー」は、昨日も書いたようにビジュアルがリード役ではあるけれど、古代神話の中で重要な鍵を握る出雲と諏訪においては、例えば出雲大社などビジュアル自体が一つの象徴的記号になってしまっているので、その背後を文章化することが、歴史の真相のリアリティに通じるうえで重要だと思った。

 そして、神話創造において、陰に隠れている海人族のことも、文章化によって顕現化することが必要だった。なぜなら、古代、日本各地を自由自在に移動していたのは海人族であり、彼らが、各地域の伝承を伝える役割を担っていたからだ。

 その一つが、古事記において天皇以外にもっとも多く登場する海人族の和邇氏。

 天孫降臨のニニギが最初に娶ったコノハナサクヤヒメは、別名が神吾田津姫で、これは、南九州を拠点とするアタという海人族の女神なのだが、このコノハナサクヤヒメを祭神とする代表的な神社が、富士山信仰とも結びついている浅間神社。その総本社である富士山本宮浅間大社神職は、歴代、和邇氏の後裔がつとめてきた。

 しかし、和邇氏というのは、西暦500年を境に氏姓制度が始まって以降は歴史に登場せず、小野氏や柿本氏や春日氏の祖として位置付けられているだけで、この小野や柿本が、古代から中世にかけて、文学者を多く輩出している。

 文学の起源は神話であり、その神話の背後に、海人族がいる。

 日本の地勢の象徴的な場所である飛騨、そして海や河川を舞台に活動した海人族と神話の関係、出雲や諏訪が意味するところにおいては、ビジュアルメインの「始原のコスモロジーで」の中で、特別な意味を持たせて言語化している。

 

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始原のコスモロジー 日本の古層Vol.4の納品日が決まりました。

12月15日(金)です。

現在、ホームページで、お申し込みの受付を行っています。

本の発行に合わせて、12月16日(土)、17日(日)、東京の事務所で、第13回目のワークショップ セミナーを行います。

 

 

www.kazetabi.jp

また、本の発行に合わせて、12月16日(土)、17日(日)、東京にて、ワークショップセミナーを行います。こちらも、詳しくは、ホームページにて。