第1127回 追悼 鬼海弘雄さん(1)

  10月19日、鬼海弘雄さんが、2年あまりのリンパ腫との闘病の末、亡くなった。 春頃までは、電話がかかってくれば、次の本作りのことや、良くなったらあと一回、トルコに取材に行きたいなあとか、そういう前向きな話ばかりだった。きっと、自分を鼓舞していたのだろうと思う。

 2、3ヶ月くらい前からは、次の仕事のことは話さなくなり、自分の体調のことには触れず、こちらを讃え、激励し、力を与えてくれるような内容ばかりになっていた。

 人生の奥義を知り尽くしている人だから、少しずつ達観の境地に至っていたのだろうと思う。

 抗がん剤治療という壮絶な苦しみを背負うならば、数年は生き延びることはできるが、抗がん剤治療をやめるなら数ヶ月だと医者から言われていると、2、3ヶ月前、淡々と話していた。

 その時、「もうこの年ですから、死ぬのは怖くないですけどね」とポツリと言っていた。どのような決心をなされたのか。

 最後に電話で話をしたのは9月下旬。いつもより時間は短かったが、やはり、こちらを讃え、激励する内容だった。

 人は、人生のなかで多くの出会いがあるのだけれど、人生の方向性に大きな影響を与える出会いは、数限られている。その方向性の選択の結果が、社会的評価として良かったと悪かったとかの世俗的な分別を超えて、自分自身として、その選択に納得できるかどうかは、その出会いに対する感謝があるかどうかで決まってくるだろう。

 この道を歩んでいるのは、あの出会いがあったからこそと振り返る時、この道を歩んでよかったかどうかを考えるまでもなく、この道と自分が一体化している。

 鬼海さんは、私だけでなく多くの人に、表現を通して、その人柄を通して、そんな稀有なる出会いをもたらしている。

 鬼海さんが撮ったインドや浅草やトルコや東京の街中の写真は、全て鮮明に覚えているくらい何度も何度も見てきたけれど、鬼海さんの死の前日、なぜだかふと、「居場所」という本を見ていた。

居場所 | 北星学園余市高等学校

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  北海道、京都、大阪、東京などを一緒にまわり、若者たちを取材した時のもの。

 不登校の子供達を受け入れる北海道の北星余市高校が、通信制の学校が増えてことなどもあって存続の危機にあり、この高校を卒業して頑張って社会で生きている子達を取材して、通信制の学校だと得られないものが人生の糧になるのだということを伝えるための本を作ろうとした。

 その時、写真撮影をお願いした。「日本社会においても重要な仕事だから」と、即答で受けてくれた。そして、「悩んでいる家族にも、悩んでいない人にも、よい本になるように」と、言ってくれた。

 その「居場所」という本の中には、会ったばかりの20代の若者と、ほんの少し話をして、そのあたりを一緒に散歩したりして撮影した写真や、北星余市高校まで出かけて行って、現役の生徒たちの学習風景や、彼らを支えている先生や町の人を撮った写真が掲載されている。

 そして、それらの写真がおそろしく絶妙なのだ。

 インドや浅草の写真は、撮影している現場を見たことがないが、「居場所」という本は、私自身、ずっとそばにいて、一緒に歩いて、撮影する瞬間も見届けていた。どの瞬間も、何か特別なことが起こるわけでないし、ロケハンをしていい場所をあらかじめ決めていたわけでもない。ごく普通の街中で、ごく普通の若者たちを撮影しただけだ。

 しかし、写真が送られてきた時、唸った。カメラは、シャッターを押せば誰でも撮れる。そんなシンプルな機械なのに、送られてきた全ての写真が、あったかい空気で包まれており、そのうえで、写っている人たちのそれぞれ異なる魅力が引き出されている。それがほんとに不思議で、奇跡の産物のように思われて仕方なかった。

 それまで、そう簡単にシャッターを押さない人だということは、当然、知っていた。真実の瞬間を待ち続けることにおいて常人にはないタフな精神が宿っていることはわかっていた。時間をかけて撮り続けることで、あれらの珠玉の写真群ができあがるのだと。

 しかし、やはり、それだけではないのだ。限られた時間のなかの瞬間芸のような仕事でも、他の人には真似ができない魅力的な世界が立ち上がってくる。単に写真が上手いとかそんなことではなく、「居場所」という本を通して実現しなければならないと考えていたことが、その通りになっているのだ。

 仕事を一緒にするパートナーとして、こんなに楽なことはない。

 かと思えば、「 TOKYO VIEW」という写真集を作る時は、まったく楽ではなかった。

kazesaeki.wixsite.com

 この本は、長い編集制作期間を除いて、印刷だけで、やりなおしなども含めて、1年かかった。

 私は、本作りの経験はけっこう長くなるし、写真の再現性が強く求められるものも作ってきたので、印刷のことはかなりわかるという自負がある。

 しかし、それまで経験したことのない高次元のレベルが求められた。はっきり言って、狂っているとしか言いようのないくらいのテンションになって、2人で、最高峰の印刷を求めた。

 歴史に残る写真集にするために。100年後、200年後に見る人も、強く心を惹きつけられる写真集にするために。

 最高峰の印刷を求めるというのは、印刷会社に要求すればいいという問題ではない。

 単に綺麗に印刷すればいいというわけではないのだ。何をどのようにレベルアップさせるのかということをしっかりと掴んでいなければ、たとえば紙の選択、特色の選択、ニスの使い方など、印刷会社ではなく制作者サイドで決めなければならないことが決められない。

 そして、何度も何度もやりなおして、ようやく完成した「Tokyo view」という写真集において、もう発売から数年経つのに、最近も、しょっちゅう電話してきて、「今、見直しているんだけどさあ、最高だよね。いやほんと、いいものを作ってくれて、ありがとう」と言ってくれた。

 去年の暮れ、見舞った時に、私がピンホールカメラで撮っているプリントを見せた。

 すると、「すぐに本にしなよ」と言うので、驚いて、「もう少し時間をかけるつもりなんだけど・・」と言うと、「もう十分だよ、今、やんなきゃ、まとめられなくなるよ、大丈夫だよ」と、ものすごく強引に背中を押してくれた。

 そして、そのエネルギーをいただいてSacred wordを作った。

www.kazetabi.jp

  3月末に完成してすぐに送ったら、「こういうのは、これまで誰もやってないものだよ」と褒めてくれた。写真だけでなく、文章量も多いのに、丁寧に読んでくれて、面白いと言ってくれ、次は自分自身のこと(時間の中を旅している存在として)をもう少し入れてもいいじゃないか、とアドバイスをくれた。

 この本を1000部、55万円で印刷したという話をしたら、こういう形で未発表のトルコの写真集を作ってみようかと、盛り上がった。そのあとも、トルコの写真のネガを見直しているとか、あと一回、取材に行きたいとか、次の本作りのことを考えるのを心の励みにしていた。抗がん剤によって蝕まれる気力を奮い立たせるように。

 2年前までは元気だった。外でお酒を飲むこともできていたし、京都に来た時は、けっこう石の階段の上り下りがきつい神護寺など観光したし、嵐山の桂川沿いを、一番奥まで、飽きもせず、なんども散歩していた。

 最近、同じ場所を歩くたびに、あの時の光景を思い出していた。「居場所」の写真のように、鬼海さんのあったかい眼差しで包まれたあの光景を。

 覚悟はしていたけれど、こんなに早く逝くなんて。

 わかっていたことだけど、とても辛い。

 ありがとうという言葉では簡単には言いつくせないものをいっぱい頂きました。それを無駄にしないように生きていきます。