第1302回 われらの時代の終焉(1)

 京都の私の家にはテレビアンテナがないのでテレビが見られないのだけれど、昨日、近くの温泉に行って、サウナに備え付けのテレビニュースを見ていたら、次の日銀総裁植田和男氏のことが伝えられていて、植田氏の叔父さんがインタビューに出て、「ラジオ英会話などを聞く勉強好きの子供でした」などと話していた。

 人の良さそうな叔父さんの言葉は、素直な言葉で何の問題もないと思うが、このインタビューを、ニュースの中に挟み込むテレビ制作側の神経が、まったく理解できない。

 いったい誰に何のためにニュースを伝えようとしているのか。観る方も、限られたニュース時間の中で、こういう話を聞かされても、まったく意味がないだろうに。今後の日本の経済がどうなっていくのかとか、考えなくてはいけないことは無限にあるのに。

 最近、テレビ番組を受信できない大型チューナーが売れているらしいが、当然だろう。私も、映画などを見るためのモニターとしてテレビを使っている。

 私たちが生きている時代を一言で形容するならば、「どうでもいい、嘘もいっぱいまじっていて、本質が歪められた情報」を、毎日のように浴びせ続けられている時代、ということになる。

 それは、情報を受け取る側が、自分の目で物を見て判断することや、聞いたことや読んだことを、自分で考えて判断することを怠り続けていることと裏表の関係になっている。

 心を澄ませて、判断して、良いものは良い、そうでないものは、そうでない、とジャッジできればいいのだけれど、とりあえず「いいね!」しておこうか、くらいの感覚で、目の前を流れる情報と付き合ってしまっている。

 もちろんこれは今に始まったことではなく、ずっと以前からそう。

 私が「風の旅人」を運営していた頃、他の出版社で働いていた編集者などが面接を受けにきたりして、いろいろ話を聞かされたが、雑誌が休刊する時に発表している数字は、10倍増し。

 部数が減って4万部になったから休刊などと言っているのは大嘘で、20年前のデジタル製版技術の導入で、その時から印刷代は、桁違いに安くなっており(150ページの製版代が800万円から50万円に)、だから私は、広告掲載無しで風の旅人を続けられた。

 4万部売れれば、広告がなくても、ホクホク顔で運営できることを私はよく知っている。少しでも広告があれば、なおさらだ。

 分厚い婦人雑誌が書店の店頭に面で置かれているのも販売好調だからではなく、雑誌社が、その面を書店から買っている。スポンサーの目につくようにだ。キオスクなども、そういうポスター効果のある販売スペースがあった。

 書店側も、その方が利益になる。広告だらけの安雑誌を売っても書店の利益は1冊につき100円にもならない。しかも、あんな分厚い雑誌を買っている人など見たことがない。美容院などにも、無料で配られているから。

 だったら、書店は10,000円をもらった方が楽でいい。そして、雑誌を作る側は、広告記事の部分だけでなく、読者には広告とわからないタイアップ記事ばかりの紙面構成なので、とにかく、世の中に流通しているということを見せておかなければいけない。

 次の号が出る時には、膨大な冊数が断裁処分される。

 美術雑誌などでも、巻頭の数ページだけ、大美術館で展覧会を行っている画家の特集をして、その後ろはすべて、無名画家が、自分でお金を出して掲載してもらっていた。

 FMラジオなどもそう。聞いたことのない名前の歌手が次々とインタビューに出てきて楽曲を鳴らすが、プロダクションの営業によるものだし、出演側がお金を払ったりもする。雑誌編集者が紹介したり、トーク出演させるお店なども、同じ。ジャパネット高田などは、広告ということが明らかにわかって、トークの説得力で勝負しようとしているので、その分、卑怯さがない。

 こういう状況を認識している意識高い系の人をターゲットにした催しで呼ばれる文化人や学者も、他の誰でも言っているようなことや、数十年前と同じことを繰り返しているだけ、という人も多い。大事なことだから繰り返すということもあるが、過去のその時点から思考が停滞してしまっているから繰り返している人が、「知の巨人のように祀られている人」のなかにもいる。ベストセラーになってしまうと、その傾向が顕著だ。しかし、ベストセラーは内容がいいから売れたのではなく、口述にして、ものすごくハードルを下げて、編集者が売れやすいように書いたから売れた。本の中身としては、それ以前の方が、圧倒的にいい。

 著者は、儲けようと思って、そういう提案を受けたわけではなく、「諦めた」からそうした。一生懸命に書いても、世の中はこの程度のものだから、それに抗わずに受け入れる気持ちになった、と言っていた。「そういうものなんだ」と諦めたうえでの、啓蒙活動。 

 それは悪いことではないと思うけれど、そういう人の話を聞きにいく人は、その人の「諦め」も知っていた方がいい。

 「いい話を聞けた」などと言われても、話している本人も、うれしくも何ともないのだろう。もしかしたら、その程度と、気持ちに哀しみが混ざるかもしれない。

 そうした見極めすらできず、権威を引っ張り出しているだけの主催者が多いのも、悲しい現実。

 そういう催しに行って、登壇者はすごい人なんだという先入観だけで、いい体験をしたと思わされてしまっているのも悲しい現実。その日を境にして、数年後、その人に何ごとか良き変化が現れていればいいのだけれど。ほんの少しであっても。

 インチキな情報にグルリと囲まれているのが、われらの時代。

 

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