「数」の時代の今後

  昨日、
 マスコミ報道で一番要になってくる論点は、大勢を敵にまわすことになっても、マスコミは、言うべきことを言える矜持を持っているかどうか、ということに尽きるのではないかと思う。大勢の考えや価値観を代弁することを使命として、そのことによって糧を得ているマスコミが、大勢の耳の痛いこと、知りたくないこと、気づきたくないことを示すことができるかどうか。
 と書いた。
 また、
 メディア報道に限らず、シンポジウム等に登場する文化人にしても、大勢が味方してくれるような言いやすい場所で、立派なことを言うことは、もはや大した意味がないのだ。
 言いにくい場所で、大事なことをどのように伝えるか。そこに、その人の徳と知性が発揮されるのだろうと思う。

 と書いた。

 しかし、よくよく考えてみれば、それができれば、もはや”マスコミ”でもないし、”文化人”でもない。
 ”マスコミ”にしても、”文化人”にしても、大勢が支持するお墨付きの価値観のうえに成立している一種の権威的存在であり、権威的な力を必要とする人たちに、おだてられたり持ち上げられたり仲間になったりしながら上手に利用し合う存在でもある。政治家に気に入られた記者が、情報収集に有利だという構図もそこにあるし、シンポジウム等の集客を増やすために、また格を上げるために、”質”とは関係なく”有名”であるだけの理由で文化人を利用したり、マスコミに取り上げられることを喜ぶ構造も、そこにある。
 いずれにしろ、大勢の流れに乗れることが、マスコミニュケーション社会では成功するということであって、本がよく売れたりテレビへの露出が多いということで祭り上げられる文化人も、そうした社会構造から必然的に作り出される存在なのだ。
 タレントが政治家になるのに有利ということ。二世議員が本人の資質とは関係なく、大勢の支持基盤を自動的に引き継いで有利に立てること。政治も含めて、この時代の力の原理は、そうなっていることは否めない。
 こうした状況は一挙に変わらないとは思うが、それでも少しずつ変化していることも感じられる。
 というのは、マスコミュニケーション社会が価値観の拠り所にしている”大勢”の規模が、著しく縮小化しているように思われるからだ。
 一つの特定の場に入ると、その場に同調する人々が群れているのだけど、その外の人は、そういう場があることすら知らないという状況が、とても多い。
 最近、20代の人たちと会う機会が多いが、彼らのほとんどがテレビや新聞を見ず、情報収集はインターネットで済ませている。
 テレビの視聴率は世帯で算出しているが、10%の視聴率があったとしても、一家でテレビを見ているのは主婦だけということも多い。10%と言われると、日本の人口からして1000万人くらいの錯覚を与えるが、人数に換算すると、その4分の1以下だったりするのだ。
 実際に報道系のテレビ番組の制作に関わっている人から聞いた話では、ターゲットは、40代の主婦に絞っているということだった。家のテレビのチャンネルを握っているのは主婦で、その主婦に媚びていれば視聴率が獲得できるという計算だろう。しかし、「主婦」といっても、一言で括れないほど多様化してきているのが現実だ。「主婦」は、他の世代と比較すれば似たような傾向があってサンプル調査しやすいという程度のことで、全ての「主婦」を同じにできるわけではないから、数字が稼ぎにくくなって当然だ。
 現代は、「数が多い」ということが収益につながる構造を徹底的に作りあげているのだが、価値観の分散化によって数を得ることが次第に難しくなってきて、構造が変容しつつある。
 数が10%減れば、収益はその何倍も減ってしまう構造になっていることが恐いところで、生きのびていくためには、従来の構造を変えざるを得ないのだ。

 これまでは、「数」があるから、コストも下がる。競争優位に立てる。スポンサーもつく。関連ビジネスも繁盛する等、「数」の周辺には、メリットが連鎖的につながっていた。しかし、そうした構造は、右肩上がりに成長することが前提に作られているから、数を少しでも失えば、逆回転が起こり、連鎖的に崩壊していく。2兆円も利益がある企業が、「数」を減らすことで一瞬にして大赤字になってしまう。
 現代は、「数」に頼った仕事は長続きしにくく、非常に危うい状況に置かれている。産業界では、パソコン、デジタルカメラ液晶テレビ、そして旅行の格安チケット等において、顕著に表れている。パイが小さくなってきているので、他よりも少しでも「数のメリット」が秀でているところに一点集中し、他の全てが負けるという状態なのだ。
 広告の出稿においても、当然そうなる。出版社は、数少ない”計算できる雑誌”で、多数の社員を養わなければならなくなる。
 一つの雑誌だけ見れば充分に採算がとれる筈なのに、質を下げても、いただける広告は全ていただくというスタンスにならざるを得ないのは、そういう理由だからだろう。でも、そういうやり方は、その場凌ぎになっても、長く続く筈がない。
 「数」を追求するやり方が、これまでは成功への布石だった。しかし、それはとても危うい選択であることが、現在の経済危機で明らかになっている。にもかかわらず、消費活性化などと古い発想から離れられない頭の堅い人が、戦後の貧しい時代を生きてきた年輩者に多い。
 新しい世代は、「数」を大して得られなくても何とかやっていける方法を、手探りしながら少しずつ形にしていく努力をしている。まだまだ形になりきれておらず、従来の「数」を力にした勢力の前で無力を感じることも多いだろうが、それでも、そうした無数の小グループが、緩く結びつくネットワークも築かれつつある。
 簡単に集団に迎合しないし、有名とか権威に媚びることもない。特定の集団と強く結束し、その地盤を武器にすることもない。個を尊重し、個の質を見極め、時と場に応じて、自らの判断で結びついたり離れたりできる。そうした柔軟性と緩さから未来の形が編集されていく。そうした状況が少しずつ増えて臨界点に達すると、「数」を追求した時代が遠い昔のように感じられて、ものごとが根本的に変わる予感がある。