敢えて自殺について?

 「ははは」さんのコメントは敢えて残したが、「敢えていじめについて」に対するコメントで、一つではなく、幾つかのコメントを削除している。

 反対意見だから削除しているのではない。意見ではなく、揶揄にすぎないから消去している。

 意見というのは、人が言っていることをあげつらうことではなく、論じられていることに対して、自分はどう考えるのか、その根拠は何なのか、そのことについて自分はどうすればよいと思っているのかを自分の言葉で伝えることであって、相手の言葉を極端までに単純化して、匿名の仮面をかぶって投げ捨てるように放つことではない。

 匿名で揶揄を投げかける体質は、実は、いじめをする体質と同じではないかと私は思っている。相手がそれに怯んでしまうと、それに乗じて、執拗に攻め続ける。それが集団化する。けっきょく、いじめをする側も、気が弱いだけではないか。堂々と自分の顔をさらしながら独りでは何もできない小心ものの集まりだろう。

 「敢えていじめについて」の?〜?で、私は、「いじめ」について、「学校側の責任問題!」と一言も書いていない。そのことで即、「いじめ肯定」とみなす人がいる。

 このようなブログで、かっこつけて、「学校よ何とかしろ!」と言うことは簡単だが、マスコミをはじめその論調一色のうえに、ブログでその論調をなぞることに何の意味があろう。もし本気でそう思い、それを何とかしたいと思うならば、学校に本気で手紙でも出せばいいわけで、ブログのコメントなどでワイワイ言うようなことではない。

 一つの問題が生じている時に、一つの側面ばかりが強調される。しかし、一つの側面ばかり、あれこれ言っても、言いたいことを言ってすっきりしたという程度で終わり、問題は解決されない。

 いじめに関しては、当然ながら、学校側にも問題はある。学校側という抽象的な言い方をすると、校長とか教育委員会しか顔が思い浮かばない人もいるだろうが、「学校」というのは、教師と父母の全体によってなされる学校教育や学校環境に対する思いや働きかけや日々の努力の積み重ねであって、「校長や教育委員会の管理」を=「学校側のスタンス」と思わないことだ。

 管理者だけを一斉攻撃すると、管理者は、自らを守るために自らが管理しやすい体制づくりをはかる。極端かもしれないが、いじめ=退学などの懲罰による徹底管理と、そこに、他の生徒による「正義のための密告」を奨励するシステムをくわえると、いじめは消えるかもしれない。 

 管理による問題解決というのは、徹底するとそういうことになっていく可能性がある。

 しかし、「いじめ」に関しては、それが起こっている背景として、「校長や教育委員会の学校管理」の問題があるだけではない。当然ながら教師全体の問題もある。そういう教師を生みだした学校教育や採用方法や雇用方法の問題もある。また、その教師の行動をいろいろと縛ったり誘導したりしているのが多くの父母の潜在意識や直接の働きかけだったりする。そうした環境のなかで、いじめに直接関わっていないけれど、それを停止できない他の生徒の問題はどうなる、ということもあるだろう。もちろん、いじめの傍にいれば様々な葛藤もあるし、勇気も必要だが、それをうまく発揮できないからといって、安易に学校管理に任せるだけで、その生徒達が健やかに育っていくのかという疑問もある。

 自分では何もできなくても、何もできないという屈辱を抱えて何とかできるようになりたいと思いながら大人になっていくのと、屈辱を感じず、問題解決や問題管理は人任せでいいと思いながら大人になっていくのでは、後の人生も変わっていくのではないか。

 いろいろ複雑な状況が関係し合って問題が発生していることは間違いなく、にもかかわらず、みんなが足並みを揃えるように、誰でも言える「学校側の責任」について、あれこれ言ってもしかたがない。もっと多面的に考えていかなければならないだろう。

 「学校側の責任」だけを大きな声で言う人は、自分の頭で考えてそう言っていると自分では思っているかもしれないが、実は、知らず知らず、マスコミの論調の影響を受けているだけかもしれない。

 私は、学校を擁護する気持もないし義理もない。日本の学校教育制度を憎んでいる。だからドロップアウトもした。

 そういう言い方をすると、それができるのは「強い」からであって、「弱い」人間のことも考えろ、とか言う人もいる。

 しかし、強いとか弱いとかではなく、現状の学校を批判しながら、「現実はこうだから」とか言い訳しながら、その学校体制とそれに基づく社会システムにしがみついている大勢がいるかぎり、けっきょく何も変わらないのだ。

 進学競争を批判するのは簡単だが、進学に目の色を変えている大勢の人たちがいるかぎり、そのシステムは変わらない。

 

 自分の考えを自分の行動に結びつけることが難しい社会環境に生きる私たちは、本当に自分の考えなのか、それとも、人に擦り込まれたものを自分の考えだと思いこんでいるだけなのか、捉え直す必要があるだろう。

 たとえば北朝鮮の問題にしても、マスコミなどが流す情報などによって北朝鮮のことをわかったつもりになって、それに対する自分の考えを持っているように錯覚している。だから、安易に「制裁」という言葉になってしまう。

 いじめだって、そのように単純化した「制裁」意識で行っている輩もいるだろう。根は同じなのではないか。

 自分の考えではなく、そのように何ものかによって誘導されたものに、疑問を持たず、追随すること。そして自分には責任がない、管理者が悪い、体制が悪いと言う。その体制をつくっている一部が自分自身なのに。

 

 自分の意見のつもりでも、実は人が言っていることのコピーにすぎないことがある。その増殖の方に私は警戒感を抱く。

 コピーの増殖は、本質を見えにくくする。さらに、匿名性の仮面でコピーが増殖されると、その集まりは姿形のみえない怪物のような存在となって、人々を萎縮させるだろう。そのコピーの怪物のなかにいながら、その怪物を神経質に恐れるだろう。

 いじめが起こる環境というのは、実はそのような相手の本心が見えない疑心暗鬼状態なのではないか。

 一人一人がきっちりと相手に向き合って何かを言い合えるような状態にならなければ、その状態は改善されないのではないか。

 強いからそれができる、弱ければできない、弱いものの身になって考えろと陰に隠れて言う人も多いが、それを陰で言い合い、そのスタンスを増殖させることによって、いったい何がよくなっていくのだろう。

 自分の意見のつもりでも、それを言うことに何の覚悟もない言葉は、まわりに同調者がいるということを隠れ蓑にして発せられるコピーの増殖にすぎない。

 そういうコピーは、別にこの私のブログで読まずとも、世間にいっぱい溢れているので、消去することにしている。

 このブログを遡ればわかるが、反対意見は全て残されている。

 消されたものは、世間に溢れている変な勧誘と、それに類したものだけだ。