適度に脱力し、葉を落とす。

 最近、眠りが浅く、心身の調子が悪かった。

 昨晩は、8時間の睡眠をとり、目覚めた後も、午前中いっぱい、ベランダに寝転がって、日向ぼっこをしていた。

 週に二回は、水泳とか運動をするようにしているが、夜の室内なので、太陽の陽射しをめいっぱいに浴びるということがなく、風を肌に感じることもなかった。知らず知らず、呼吸が浅くなっていたような気がする。

 今日の午前中は、天気が良く、風も心地よく、すっかり充電できたような気がする。

 庭の桜は、まだ黄葉しておらず緑のままだが、かなり萎れている。樹がもっとも元気なく見えるのは、この時期だ。葉が潔く落ちていく時は、むしろ清々しい。完全に落ちて裸木になると、凛とした雰囲気を醸し出して、孤高の美しさがある。

 萎れたまま落ちきれない葉をいっぱいに背負っている時が、植物もいちばん疲れるのだろう。

 根を詰めて何かをやると、当然ながら軋轢や葛藤が大きくなる。そういう時期も必要だし、そのような負荷によって、火事場の糞力のように、自分でも予期しなかったことが実現できることもある。

 しかし、そのように自分を追い込むと、知らず知らず視野が狭くなって、見落とすものが多くなる。

 脱力した状態で周りを見渡した時、思わぬ拾い者をすることもある。

 一神教の神様は、厳格極まりないが、日本人が昔から親しんできた多神教のカミサマ達は、けっこういい加減なところがある。

 いい加減なくせに、突然、おっかない顔になったり、慈悲深い顔になる。

 一神教が生まれた砂漠は、自然環境が容赦なく、右左の分かれ道で間違った判断をすると目指す井戸に到達できず、それは死を意味するから、ストイックにならざるを得ない。

 しかし、森の文化は、分かれ道で、右左を間違っても、思わぬ果実が手に入ったり、泉に出会ったりする。右左を選択する判断力よりも、右でも左でも歩き始めた後の観察力が大事になる。

 頑固に足元ばかり見て歩くと、視野が狭くなり、観察力も鈍り、道の傍らにある果実を見落とす。周りにアンテナを張りながら、適度に脱力し、適度に緊張し、歩くのがよいのだろう。

 時折、休んで寝ころんでいい。ぼんやりと見上げた木の上に、美味しそうな果実を発見することもあるのだから。



風の旅人 (Vol.22(2006))

風の旅人 (Vol.22(2006))

風の旅人ホームページ→http://www.kazetabi.com/

風の旅人 掲示板→http://www2.rocketbbs.com/11/bbs.cgi?id=kazetabi