白川静さん、信実の道を逝く

 白川静さんが逝かれた。96歳だった。

 虫の知らせというのだろうか、昨日は、昼間、編集部に来た写真家と現代美術家の人とも、夜、外でたまたま会って飲んだ二人とも、白川静さんのことを話し込んでいた。4年前の「風の旅人」の創刊の頃のことや、初めて京都の桂離宮の近くのご自宅を訪問した時のことなど・・・・。

 白川さんは、「道」という文字を以下のように紹介している。

 「異族の首を携えて、外に通じる道を進むこと。」

 その説明を簡単にすると、外界に通じる道は、外族やその邪悪なる霊に接触するところであるから、その禊ぎをおこないながら進まなければならない。古代、首は強い呪力をもつと考えられ、その首を携えることで、邪霊を祓った。そのようにして啓かれたものが道であった。

 「道」というのは、古代の儀礼として、そのような意味を持つものであった。それが、いつしか、道徳とか道理の意となり、その術を道術、道法といい、存在の根源にあるところの唯一者を道といい、「道」は、古代の儀礼の意より、次第に昇華して深遠な世界をいう語になっていった。

 そして、問題は近代以降の「道」だ。そのことについて白川さんは特に記述していないが、近代の「道」は、邪に接する恐れもなく、深い意味も何もなく、人間のために整備された通行場所になった。

 現在、実際にこの足で歩く道にかぎらず、自分が知らない場所に進むうえで、恐れも何もなく、人が整備した通行場所を呑気に歩くことが当たり前になっている。

 「知識」を得るということも、本来、自分が知らない場所に進むことだ。邪悪な霊に翻弄されないように、慎重に、畏れを抱きなから、人智を超えた力にすがりながら、一歩一歩進んでいきながら、自らの道を啓いていかなければならない。お気楽に安直に、他人にあてがわれたハウツーで外の世界をわかったつもりになるというのは、既にその時点で、邪霊に取り憑かれている。

 今日のメディアの多くは、その意味で多大なる邪霊を撒き散らしている。そして、先日、訪れた国東半島の無神経極まりない道路工事も、「道」を便利な通行場所とみなす発想の産物で、根は同じだろう。

 おそらく、現在において、声を大きくして「道路工事反対」などと唱えてもだめなのだ。

 自分で自分の道を啓いていくことより、他人が作った通行場所を進むことしか考えず、その通行場所に少しでも不完全さがあると、ここぞとばかりに非難をぶちまける体質と、山野を無惨に切り刻む無神経な道路工事は一体なのだから。

 白川静さんは、まさに、「道」を啓きながら、生きた人だった。

 1969年の学園紛争時、中国文学の才能ある学者であり小説家でもあった高橋和己は、自己の思想を守るために、その運動に深くコミットしていった。

 彼は、大学自治なるものへの懐疑と特権的な教授会のあり方、学問の自由について厳しく批判し、自らの臓腑をえぐられるようにして大学の知の腐敗原理に敵対し、“全共闘のアイドル作家”となり、教授会にボイコットされ、やがて敗北し、疲れ果てて神経をズタズタに引き裂かれていった。

 その時、高橋和巳の心には、白川静さんがあった。あの学園紛争に騒然としていた時でも、白川さんの研究室はいつも深夜まで明かりが煌々と照らされて、十年一日のごとき地道な研究が続けられていた。そして、白川さんは、そこにくる学生は誰でも静かに匿っていたといわれる。

 高橋和巳は、やみがたい悲哀のなかで、心身がボロボロになった状態で、

――どうして、あのS教授のようにやってゆけないのか。世間がどう騒ごうとどうして一心に研究に打ち込むことができないのか。この哀れに右往左往する文弱の徒よ・・・・。

 と独白する。

 白川静さんほどの大学者となると、立派なお屋敷に住み、お手伝いさんとかがいて、着物を着て悠然と暮らしながら、威厳を秘めた顔で来客に接するというイメージを私はもっていた。

 だから、4年前の12月29日の夕方、クリスマスの日にお送りした手紙が届く頃をみはからって電話をかけた時、すぐにご本人が受話器をとって電話口に出たので、本当に驚いてしまった。秘書かお手伝いさんに用件を伝えるのが筋だと思っていたから。

 白川さんは既に私の手紙と企画書を読んでくださっていた。そして私に言った。

 「あんた、こんな大それた内容のこと、実現するんかあ」と。

 その時は、企画書しかなく、雑誌を書店に流す流通組織とのコネもないし、「風の旅人」の実現のメドはまったく立っていなかった。

 その時、白川さんの問いに怯んでいたら、何も始まらなかったかもしれない。

 だから、「実現できないことを、白川先生にお願いする筈がありません」と言いきった。

 すると白川さんは、「そうか、実現するんやったら、やったるわ」と、その場で即答してくれた。

  その後、白川さんと親しい文字文化研究所の専務理事の人と話をしている時、「佐伯さん、上手いなあ」と言われた。「ええっ、どういうことですか?」と尋ねると、

 「まず、普通は、直接、白川先生に行かへんでえ。立命館とかウチ(文字文化研究所)とかに相談があって、みんな白川先生の忙しさを知っているから、気をつかって、やんわり、諦めるように助言する」らしい。

 それで、白川さんは、風の旅人のような総合雑誌の連載など行ったことがないから、その専務理事が、「白川先生、ようお受けになりましたね」と尋ねると、

 「しょうがないわ。企画書に連載タイトルまで書かれて、そうするようになっとるんやから」と答えられたらしく、そのことを指して、専務は、私に「上手いなあ」と言ったのだ。

 上手いも下手も、白川さんにアプローチするにあたり作戦を考えたわけではないし、そんな小細工が通用する筈もない。私はただ、創刊に関する考えとか、雑誌の趣旨とかとともに、写真の内容や、執筆者員の名前と、それぞれの連載タイトルを私がかってに決め、それを確定事項のように企画書にまとめ、手紙とともにお送りしただけだった。

 それは、ただの紙切れであったが、その時点で、やるんだったら、これしかあり得ない、これができないなら、やっても意味がない、と信じるビジョンでもあった。

 そして、電話口で白川さんに承諾をいただき、京都まで会いにいった。タクシーの運転手さんは、白川さんの家の前に止まった時、「ええっ、こんな小さな家」と言った。京都のタクシーの運転手は、白川さんのことをよく知っていた。立派な学者だから豪邸に住んでいると思っていたタクシーの運転手は少し意外で驚いたのだ。

 大学の退職金で買った小さな建て売り住宅に、白川さんは1人で住んでいた。

 そして、ちゃんちゃんこを着て、人なつこい笑顔で迎えてくれた。

 呪の思想(平凡社)で梅原猛さんと対談している時の白川さんの顔が写真掲載されているが、その顔は気迫が漲っていて、とても恐い。対談のなかでも、あの梅原さんがなんとなく子供のように見えてしまうくらい、白川さんの存在感は凄まじい。だから、会う前は胸から胃にかけて締め付けられるような緊張感があったが、実際にお会いした時、その平身低頭で微笑みを浮かべた姿に、また驚かされた。

 限りなく優しく、限りなく恐い人。それが白川静さんだった。

 その懐の無限の深さがあるからこそ、世間の表層で何が起こっても動じなかった。 

4日前の10月29日 私は、日記に下記のように書いた。

 「現代は、神を失っているから、古代の仏像制作のようなテンションは無理で、そうした信心を持ち得ない現状を伝える作品の方が貴重だと言う専門家がいるかもしれない。

 しかし、それは、中世から近代にかけて、一神教の神にすがり頼ることができなくなった欧米のインテリの発想であり、宗教や文化的風土がまったく異なるのに、そのことを理解できない日本の一部のインテリが、欧米崇拝の延長として陥っている思考の硬直化だろう。

 南方熊楠のノートには、他には白川静先生の仕事もそうだが、古代の仏像と同じような凄みとか気迫を感じる。この人たちの視界の広大さ、行っていることの精緻さ、独創性は、「一神教の神なき時代」に生きながらも、奈良時代の仏像制作者達のように、「信心の強さ」から生まれているのではないだろうか。

 「神」や「仏」など記号的な言葉に成り下がったものではなく、森羅万象を司る何ものかの巨大な力、エネルギーのようなものに対して、直感的に強く信じるものがあるからこそ、その方向に向かって全身全霊を惜しみなく注げているのではないかという気がするのだ。

 「芸術」、「学問」、「神」、「仏」などという言葉は、もはやただの記号でしかない。

 そうした分類や分析や分野は、もはやどうでもよい。

 人間の行っている何ものかを見て、心から頼もしく、誇らしく感じられるものこそが、かけがえない。

 白川先生や南方熊楠の探究は、半人前の私には到底その全貌はわからないし、一木彫りの素晴らしい仏像も、真似をしようとしてできるものではない。しかし、それらの人間の底力は、同じ人間として、心から頼もしく、誇らしく、人間への信頼を取り戻す力に満ちている。わかるわからないではなく、そういうもののオーラに触れることで、少しでも自分を前向きにすることが大事なのだろう。」

 今さらながら思うことは、白川さんは、信実の人だということだ。上記のように、世界と自分自身を信じ、実に至った。

 そのように自分を信じる気持ちは、自己に自惚れるのではなく、天から授かった自分自身の魂の力を、畏れ多くも感謝し、深く信頼するということだろう。

 高橋和巳は、自己中毒のはてに消耗しきった時、深夜、白川さんの研究室にともった灯りを見つめながら、「世間がどう騒ごうと、どうして、あの人のようにできないのか・・・・」と、おそらく涙を流して、深く自省した。

 世間がどう騒ごうと、自らの道を、畏れ多く、慎み深く、啓いていく。

 白川さんは、96歳で逝かれる直前まで、そのスタンスは一貫して揺らぐことがなかった。人と接する時も、年齢とか役職とかの分別はいっさいなく、誰に対しても同じように、人物本位で、優しく接せられていた。

 創刊号で書いていただいたように、現実を超え、死を超え、時空を超える白川静さんは、生涯にわたって人間の現状を嘆き悲しみながら、人間への信頼を取り戻す仕事を示し続けた。

 そして、白川さんの存在がなければ、おそらく、「風の旅人」は、最初の時点で、羽を広げることもできなかった。

 深い感謝とともに、心よりご冥福をお祈り致します。


風の旅人 (Vol.13(2005))

↑風の旅人 13号 http://www.eurasia.co.jp/syuppan/wind/13/image1.html


風の旅人ホームページ→http://www.kazetabi.com/

風の旅人 掲示板→http://www2.rocketbbs.com/11/bbs.cgi?id=kazetabi