第1053回 日本の古層〜相反するものを調和させる歴史文化〜(9)

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宝塚の清荒神(北緯34.82度)から真東に、中山寺、天神神社、加茂遺跡がある。中山寺も天神神社も境内に古墳があるので、かなり古い時代のレイラインである。さらに、清荒神(東経135.35)の真南に平林寺、門戸厄神東光寺がある。門戸厄神東光寺から夏至の日没方向が鷲林寺であり、平林寺から夏至の日没方向が岩倉山である。鷲林寺、平林寺、加茂遺跡を結ぶラインは、冬至の日没ラインだが、その東に位置するのが、役小角ゆかりの箕面山である。


 清荒神は、896年、理想の鎮護国家、諸国との善隣友好を深め戦争のない平和社会、万民豊楽の世界を開く」ために、宝塚の地に、宇多天皇勅願寺として建てられた

 こうした聖域が宝塚の地に作られたのは、宝塚のある摂津の地が、それほど重要だったということだ。

『摂』は「治める」、津は「港」であり、摂津は、瀬戸内海航路の起点の地である。

 摂津は、淀川、猪名川武庫川、古代においては大和川といった大河が海に注ぎ込む場所で、海から内陸部へと入り込んでいけるところでもあり、人や物資が頻繁に行き交っていた。とくに、瀬戸内海を通って、また日本海側から円山川由良川武庫川加古川などを経由してやってくる渡来人の集まるところでもあった。

 また、宝塚を流れる武庫川武庫の名は、神功皇后が兵具をおさめたことから名が起こったともいわれ、この場所は、古代から、海上交通の支配をめぐる攻防の地だった。

日本書紀』の応神天皇31年8月の条には、次のような伝承がある。

 朝廷の船五百隻を造り、武庫水門〔むこのみなと〕に停泊させていたところ、倭〔わ〕国に使いにきていた新羅〔しらぎ〕の船から失火して、朝廷の船が全焼してしまった。新羅の王は贖罪〔しょくざい〕として優れた工匠を倭国に献上した。

 その時の工匠たちが猪名部の始祖だという。

 三重県四日市に隣接する員弁郡(いなべぐん)に猪名部神社がある。このあたりは、淡路の巨大鍛治工房でも知られる鉄と船に関わりの深い船木氏の拠点であるが、摂津の猪名川に住み着いた工匠たちの一部が移住し、もともと現地にいた人々と混じり合ったと考えられている。猪名部氏は優れた船大工や、寺院などの木工技術者として、ヤマトの地でも活躍した。

 猪名部神社の祭神は、伊香我色男命(いかがしこお)であり、「新撰姓氏録」の記載では、猪名部氏の祖神とされる。しかし、記紀によれば、伊香我色男命は、古事記の第10代崇神天皇の時に出てくる物部氏の祖であり、国に疫病が流行した時、天皇の夢枕に大物主が現れ、太田田根子に自分を祀らせれば祟りは治り、国は平安になると神託した。

 崇神天皇は、大田田根子を探させ、彼に大物主を祀らせ、伊香我色男命にも祭祀を司らせた。

 そして、伊香我色男命の同母妹の伊香色謎命(いかがしこめのみこと)が、第8代、孝元天皇の妃、第9代開化天皇の皇后となり、崇神天皇を産む。こうしたことによって、物部氏天皇家の結びつきが強くなった。

 この物部氏と猪名部氏の関係は、第26代雄略天皇に関連する記録、『日本書紀』の12年10月条や13年9月条で、木工技術者の猪名部御田(つげのみた)や、韋那部真根(いなべのまね)を物部に預けたとあり、猪名部氏を管掌するようになったのが物部氏だったようで、そのため、猪名部氏の祖先が伊香我色男命になったようだ。

 猪名川が流れる摂津の宝塚の売布神社の祭神も、伊香我色男命の息子の意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)ではないかと言われる。さらに聖徳太子の頃には、物部氏若湯坐連(わかゆえのむらじ)が、宝塚を拠点としており、聖徳太子は、物部守屋蘇我氏に滅ぼされた時、その障りを除く為に中山寺を建立したと、宝塚の中山寺の縁起に残されている。その時から厄神明王が本尊として祀られるようになり、これが我が国最初の厄神明王とされている。

 厄神明王は、愛染明王不動明王が一体化したもので、全ての厄を払う力を持つとされ、今でも大人気だが、明王というのは、憤怒の相である。大日如来の命を受けたり大日如来の化身として、仏教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を持つが、こちらも、荒神と同じく、古代インドの夜叉や阿修羅といった悪鬼神が仏教に包括されて善神となったものだ。

 厄神明王を祀っている聖域の代表が、清荒神の真南のところに位置する門戸厄神東光寺であり、ここは、空海ゆかりの日本三大厄神の一つである。

 空海は、嵯峨天皇の命を受けて厄神明王の像を三体刻み、丹生都比売神社と石清水八幡と門戸厄神東光寺に国の安泰を願って勧請した。これが三大厄神であるが、空海の刻んだ像は、摂津の東光寺にだけ残っているとされる。

  宇多天皇は、空海を追慕しており、天皇に即位して10年で醍醐天皇に攘夷した後、出家して阿闍梨として真言密教の道を究めていくが、宇多天皇も、猪名部氏と深い関わりがある。

 平安時代の女官、春澄 洽子(はるすみ の あまねいこ)が、官稲千五百束を賜って猪名部神社に奉納したという記録が『三代実録』にあるが、彼女の父は、猪名部氏だった。

 洽子は、改名する前は、高子という名で、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の五代の天皇に仕えた。そして、宇多天皇天皇の位に押し上げた功労者である藤原淑子の下で典侍(ないしのすけ)という後宮の次官となり、宇多天皇の信任も厚かったとされる。

 猪名部氏のルーツである宝塚の地に宇多天皇清荒神を作らせたことと、何かしら関係があるかもしれない。

 しかし、それ以上に、門戸厄神東光寺など宝塚周辺の空海ゆかりの地と、宇多天皇ゆかりの清荒神の関係がとても深い。

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清荒神 境内の一番奥、不動明王を祀る龍王

 清荒神は、真言宗の寺だが、鎮守社として三宝荒神社があり、神仏習合の聖域である。

 三宝荒神は、役行者由来の日本特有の信仰である。火と竈の神として信仰されることが多いが、本来は、密教不動明王などと同じ憤怒の表情で仏・法・僧の三法を守護する。神の荒魂に古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられた守護神であり、鬼の力で、災いを制するという発想である。

 清荒神との関わりにおいて興味深い話がある。門戸厄神東光寺の西、夏至の日に太陽が沈む方向に、833年、淳和天皇勅願寺として空海により開創されたという鷲林寺があり、その荒神堂に、麁乱(そらん)荒神を祀っている。

 空海が、音霊場を開く土地を求めて廣田神社に宿泊していた時、夢枕に仙人が現れ鷲林寺を創建する地を教示された。それに従い入山したところ、この地を支配するソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿をかえ、口から火焔を吹き空海の入山を妨げた。空海は傍らの木を切り、湧き出る六甲の清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で本尊 十一面観音を刻み、寺号を鷲林寺と名付けた。同時に、大鷲に化けたソランジンは麁乱荒神としてまつられたとされる。このソランジンは、廣田神社の祭神、向津姫(瀬織津姫)ともされるが、宇多天皇が作った清荒神は、鷲林寺の麁乱荒神を移したものであるという説がある。(東大寺 三宝院洞泉相承口訣)。

 さらに、ソランジンの話は、摂津のシンボルともいえる甲山に鎮座する神呪寺(かんのうじ)にも伝わる。お椀を伏せたような形の甲山は、花崗岩隆起によって形成された六甲の山々と隣接しているが、形成過程が異なり、古い火山が侵食されて今の形になった。

 神功皇后が、国家平安守護のため、その頂上に、如意宝珠(廣田神社の宝物で、神功皇后は、海中からこの宝珠を得てから連戦連勝したとされる)と兜を埋めたという伝説に彩られており、廣田神社神奈備である。六甲山系の東端の高台に鎮座する鷲林寺のすぐ近く真東に位置しているので、鷲林寺において、この山から上る太陽を拝むこととなる。

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鷲林寺の荒神堂。鷲林寺の真西が六甲山の山頂。真東が甲山。


 弘法大師の弟子で、淳和天皇の妃の如意尼が、甲山に寺を建立しようとしていた時、鷲林寺からソランジンと呼ばれる神が大鷲に姿を変えてやってきて、建立の邪魔をしにきた。恐怖を感じた如意尼は、空海に相談したところ、東の谷に大岩があるので、その上に神を祭れと教えがあり、それに従ったところ、ソランジンは、邪魔をしなくなり、守護神になったという伝承だ。

 如意尼は、空海から法名を受ける前、淳和天皇の妃だった時の名は真名井御前であり、丹後の海部氏出身とも、但馬の日下部氏とも言われるが、正史には存在しない。

 清荒神三宝荒神が移される前の話として、宝塚にもう一つの伝承がある。

 淳和天皇の妃となった如意尼の侍女で、後に出家して甲山の神呪寺で修行をしていた如一尼(にょいつに)の夢枕に天女が現れ、東の方の聖なる所に行くよう、お告げがあった。

 その場所に行くと、聖徳太子が建立し、その当時廃れていた平林寺があった。如一尼はこれを再建し、ここで修行を重ねた。

 いく年かが過ぎたある日、西方の峯に一筋の光がさし、雲のたなびく中に荒神が現れた。そのご加護を受けた如一尼は如一禅尼と改名し、人々を分け隔てせずに仏の道を説き、平林寺は栄えたという。

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(左)門戸厄神東光寺。門が真東を向いている。大阪湾に近い高台からの見晴らしは素晴らしい。古代は、すぐそばまで海だった。(右)平林寺と宝塚神社がある高台。門戸厄神東光寺清荒神を結ぶ南北のライン上にある。生駒山からヤマトの金剛山まで見渡すことができる。冬至の日には、大阪の生駒山から太陽が上る。さらに、鷲林寺が、冬至の日に太陽が沈む方向にある。 また、夏至の日に太陽が沈む方向に岩倉山があり、山名の由来は、「神が座す磐座(いわくら)」に由来している。

 如一尼は、和気氏の女性で、奈良時代後半の宇佐八幡宮神託事件道鏡天皇になるのを阻止した和気清麻呂の血縁であるが、和気氏は、もともとは備前の金属技術を持った渡来系の豪族だった。和気清麻呂は、道鏡事件が有名だが、実際の活躍は、桓武天皇の側近の高官になってからだ。播磨・備前国司となった後、786年に、摂津太夫民部卿となり、神崎川と淀川を直結させる工事を達成している。三輪山から奈良の中心部を通って淀川まで流れていたヤマトの大動脈であった大和川の土砂堆積による逆流を防ぐと同時に、淀川水系を使った物流路を作ることにもなった。この物流路が、難波宮の資材を長岡京の造営に再利用するというアイデアとなった。さらに和気清麻呂は、桂川賀茂川に挟まれ、より水流に恵まれ、水運に使えるうえに疫病対策にもなる京都の地に都を作ることを桓武天皇に提案し、造宮大夫として平安京つくりを推進した。

 摂津と和気氏の関わりは、とても深かった。さらに、和気氏空海の関係が、ミステリアスなほど深い。

 京都の高雄山中腹にある神護寺は、和気清麻呂の開基で和気氏の氏寺だったが、遣唐使から帰国した空海が、東寺や高野山の経営に当たる前に拠点とした寺である。

 そして、和気清麻呂の5男、6男の和気真綱と和気仲世が、遣唐使から帰ってきた空海を財政的にも支援していたし、朝廷とのつなぎ役ともなった。

 812年、空海神護寺で初めて行った灌頂を受けた者の名が、空海自身の筆で残されているが、 最澄、 和気真綱、 和気仲世、 美濃種人(和気一族の従者) の4人で、最澄以外は、和気氏関係者だったのだ。

 平林寺を再興した如一尼は、空海から灌頂を受けた和気真綱の娘で、空海の姪とも言われる。

 和気氏は、宇佐八幡宮事件から注目を集め、同じ渡来系の血を受け継ぐ桓武天皇の信頼が厚かったが、和気氏が歴史に存在していなかったら、平安京もなかったかもしれないし、空海が歴史舞台に登場する機会も、失われていたかもしれない。

 そして平林寺は、宇多天皇が作らせた清荒神と、空海ゆかりの日本三大厄神門戸厄神東光寺を結ぶ南北のライン上に位置している。

 さらに不思議なのは、平林寺のある高台から夏至の日の太陽が上る方向、猪名川の側に加茂遺跡があることで、この加茂遺跡から中山寺清荒神が、東西のラインにそって、きっちりと並んでいる。

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中山寺奥宮。宇多天皇自らが天神を彫ったとされる磐座。

 加茂遺跡は、丘陵に立地する近畿地方を代表する弥生時代の遺跡であり、東西800メートル、南北400メートルという広大な環濠集落だ。遺構や遺物は旧石器・縄文時代から平安時代かけてのもので、とりわけ、弥生時代中期~後期の遺構の遺構が最盛期であり、環濠、外濠、斜面環濠を擁し、最明寺川と台地の斜面の地形と合わせ、防御機能に優れている。

 加茂遺跡のある高台から大阪平野を一望できるが、古代の海岸線は今よりも内陸に食い込んでいたので、この要塞化した巨大集落から、海が望めた可能性が高く、行き交う船も確認できただろう。

 さらに、鷲林寺、平林寺、加茂遺跡の夏至の日の出のラインを東に行くと、役小角が修業し、弁財天の導きを受けて悟った箕面山となる。

 役小角は、西宮の甲山の南の目神山でも弁財天を感得し、六甲修験道を開基したが、鷲林寺は、その起点である。(目神山は、鷲林寺と門戸厄神東光寺を結ぶ冬至の日の出ライン上にある)。

 平林寺と中山寺聖徳太子、鷲林寺と門戸厄神東光寺空海、そして六甲修験道を作った役小角は、清荒神「行者洞」でも祀られている。

 宝塚の地は、聖徳太子役小角空海と、それぞれ活躍したのが紀元600年、700年、800年と、百年ごとに歴史上に現れた伝説的な聖者と関わりの深いラインが張り巡らされている。

 さらに、この3人は、怨霊、鬼と深い関係がある。

 そして、空海の時代から100年後の紀元900年が、宇多天皇の時代なのだ(867年 - 931年)。宇多天皇で、忘れてならないのが日本三大怨霊の一つ菅原道眞(845-903)である。

  宇多天皇は、藤原氏の政治的影響をできるだけ減らそうと努力し、菅原道眞を抜擢して、政治改革を行おうとした。

 聖徳太子の紀元600年、役小角の紀元700年、空海の紀元800年は、それぞれ、推古天皇天武天皇桓武天皇という古代における重要な改革が行われた天皇の時である。

 同じく宇多天皇や菅原道眞が世に現れた紀元900年も、延喜の改革が行われるなど、日本の歴史で何度か起きた大きな転換期の一つだった。(続く)