その時期は、ニニギが天孫降臨した時期より早い。神武天皇が東征を行ってヤマトの地まで来た時、既にヤマトの地にいたニギハヤヒは、ヤマトの豪族ナガスネヒコとともに、最初は神武天皇に抵抗したが、後に、ナガスネヒコを殺し、神武天皇への従属を誓う。
近畿圏のイカルガという場所を調べてみると、その海人たちと関係があるように思えてくる。
古墳のサイズだけ見れば、これよりも巨大な古墳は日本には無数にあるのだが、この私市円山古墳は、小山の頂上に建造されており、小山それ自体が巨大な古墳のようで、さらに、この古墳から360度のパノラマ風景が絶景だ。
頂上には、2人の王の墓があった。2人の王は、正確に東西の方向を向いて横たわっており、武具や農工具、鏡、玉類等の副葬品が膨大に出土しており、38本の矢が収められた胡籙(やなぐい)も出土している。
この古墳は、まさに”大王の墓”のイメージにぴったりの古墳であるのだが、不思議なことに建造は5世紀の古墳中期であり、この時期は、大和朝廷の典型的な前方後円墳が突然巨大化して全国にたくさん建造されていた時期だった。
その時期に、大王のものと思われる巨大な円墳が綾部の地に築かれている。それは、この地域が、ヤマト朝廷とは異なる勢力の拠点だったからだと想像できる。
実は、この綾部から西隣の福知山、大江山にかけては鬼退治伝説の舞台である。大江山周辺は鉄の産地であり、綾部は、鉄と織物が盛んだった。私市山古墳のすぐ北に鍛冶屋という集落があり、そこに鉄製品を作る人たちがいたと思われる。
この地名の”私市(キサイチ)”というのは、交野の磐船神社の北の地域、私市と同じ地名なのだが、「日本書紀」によると、天皇の后の用事をする役所を私府(キサフ)と言い、また后のための農耕をした人などを私部(キサベ)と称していた。つまり、交野と綾部は、天皇の妃と関係が深い土地であったということだ。
そのため、日本の神話においては、天皇個人の系譜だけでなく、その妻や、妻の実家のことが詳しく残されている。
代表的な氏族としては、第16代仁徳天皇の頃の葛城氏、第29代欽明天皇の頃の蘇我氏などがいるが、第26代継体天皇や、日本を律令国として整えていく天智天皇や天武天皇は、血統的にも息長氏と尾張氏との関わりが深い。
しかし、その後、蘇我氏の権勢が高まり、用明天皇、推古天皇、崇峻天皇と蘇我氏関係の天皇が続き、押坂彦皇子は、天皇に即位することはなかったが、その息子が、舒明天皇として即位。舒明天皇は、死後、息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと )という名を贈られるなど、息長氏との関わりが強調されている。
綾部のイカルガは、私市円山古墳から北緯35.31の同緯度の東西ライン上で145kmのところに尾張一宮の真清田古墳がある。ここは、尾張氏の重要拠点で、京丹後の籠神社と同じくアメノホアカリが祭神である。そして、このラインの途中に、伊吹山と霊仙山のあいだの上丹生の地があり、ここは、継体天皇と血統がつながる息長氏の拠点だった。
さらに、琵琶湖を超えた高島市には、鴨稲荷山古墳があり、ここは、継体天皇の母、振姫の実家である三尾氏の陵と考えられており、さらに、その西には、岳山の麓に大炊神社があり、ここが継体天皇の誕生の地とされている。
そして、興味深いことに、祭神の正式名が天照国照彦天火明奇玉饒速日命というアメノホアカリとニギハヤヒを合体させた交野の磐船神社の真北、東経135.69度で13kmのところが、継体天皇が天皇に即位した後、最初に都とした樟葉宮(クズハノミヤ)伝承地であり、さらに、その真北7kmのところが、三番めに都とした弟国宮なのだ。
鶴林寺は、古代の交通の大動脈といえる加古川の下流、海への出口に位置しており、ここから南東5kmほどのところには、卑弥呼の時代と同じ後期弥生時代から古墳時代初頭に栄えた大中遺跡がある。この巨大な集落跡からは、多くの住居跡とともに土器、鉄器、砥石、そして貝殻や飯蛸壺、更には中国との交流を示す分割鏡などが発掘された。
さらに、鶴林寺の北西5km、加古川の対岸には生石神社がある。ここは、巨大な岩が御神体となっているが、このあたりは、古代の石切場で、仁徳天皇陵など天皇の古墳のなかの石棺で使われていた竜山石の産地である。
すなわち、聖徳太子太建立七大寺の一つとされる鶴林寺は、聖徳太子以前から重要な場所であった。なによりも加古川の河口であり、日本海と瀬戸内海を結ぶ交通の要所であり、加古川を遡り本州で瀬戸内海と日本海のあいだの日一番低い分水嶺を抜けて由良川にアクセスすると、若狭湾の籠神社の場所と簡単につながる。
古代の鍛治関連の額田氏の拠点でもある。
そして、この地の北西4kmほどのところに名神大社の粒坐天照神社(いいぼにますあまてらすじんじゃ)があり、ここも、アメノホアカリを祀っている。推古天皇の時代に、突然、この神が容貌端麗な童子の姿となって現れ、自分はこの土地を守って1000年を超えると告げて、神社の造営と水田耕作を命じ、種稲を残したと伝えられている。
さらに、粒坐天照神社の2kmのところに鎮座する井関三神社は、交野の磐船神社と同じくアメノホアカリとニギハヤヒが合体した天照国照彦火明櫛玉饒速日命を祀っており、社伝によると神社の北2kmの亀山に神が降臨したとされる。
このようにして見ていくと、イカルガは、継体天皇、尾張氏、息長氏との関係が濃厚で、かつ加古川、揖保川、由良川、大和川、天の川といった重要な河川沿いであり、水上交通との関係も深い場所だということがわかる。
最後に、イカルガと松尾の関係である。
地図を見ればわかるように、京都の松尾大社は、交野の磐船神社の真北で、四日市のイカルガ神社の真西である。
そして奈良の斑鳩の法隆寺の背後に松尾山と松尾寺があるが、ここは、日本最古の厄除霊場で、法隆寺の僧侶の修行場であるともされる。
さらに、息長氏の拠点である米原の上丹生にも松尾寺がある。
京都の松尾大社は、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建に関わり、松尾大社と秦氏は関係が深いと考えられているが、秦忌寸都理は、秦氏に養子入りした賀茂氏だった。
そして、平安時代初期に将軍として活躍し、後に武神や軍神として信仰の対象となる坂上田村麻呂は、父親の坂上苅田麻呂が松尾大社に祈ることで誕生したとされ、幼名を松尾丸と名付けられたのだが、彼は、秦氏と同じ渡来系ではあるが、東漢氏だった。
聖徳太子の時代の代表的な秦氏といえば秦河勝だが、『日本書紀』によれば、603年、聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝が、この仏像を譲り受け「蜂岡寺」、現在の太秦広隆寺を建てたという。広隆寺は、松尾神社の北東2.8kmのところにあるが、創建当時もここにあったかどうかは定かではない。
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