第1083回 もののあはれという、日本人の運命の受け止め方

 

 コロナウィルスで、かつて経験したことのない重い空気が世界を覆っている。

 私は、2015年10月に発行した風の旅人の第50号で、次号の告知として、「もののあはれ」を発表したものの、その底深いテーマの前に途方にくれ、そのままになってしまっていた。

 日本人が、昔から大事にした感受性、”もののあはれ”の真意は何なのか、その起源はどこにあるのか?

 日本は、地震、火山噴火、台風など天災が多いところなので、そうした人智を超えた力の前で運命に逆らうような抵抗をしてもどうにもならない。ならば、その運命の受け止め方をどうするのかが日本人の精神にとって重要なこととなり、それが、”もののあはれ”という美意識に洗練されていった。単なる諦めではなく、はかない宿命だからこそ、隅々まで神経を行き届かせる思いやりという愛が成熟していくというように。

 そして、ギリシャ彫刻のような完全なる形を愛でるだけでなく、崩れていくもの、傷ついているもの、揺らいでいるもの、そこはかとなきものを愛するという繊細な感受性を磨き上げていった。

 そうした日本の”もののあはれ”の源流を探るために日本各地の聖域に足を運ぶたびに感じることがある。それは、古くからの日本の聖域は、エジプトやギリシャと異なり、風雨や植物に侵され、明確な形が残っておらず、ほとんど気配だけが漂っている状態であること。

 ほとんどの場所が、「夏草や つわものどもが 夢の跡」という芭蕉の俳句の世界なのだ。芭蕉は、そこに漂う気配と自分の想像力で、いにしえの人々に深く心を寄せていた。

 日本人は、そこにある物だけではなく、そこにある物の背後のことを強く意識する気質がある。その気質は、自然風土が育んだものか、自然風土によって洗練されていった文化風土によって、日本人の気質が育てられたのか。

 実際に、「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行の歌を、我が事のように追体験できる人は多い。

 そして、私は、日本の聖域を訪れながら、そこにある物自体をデジタルカメラで撮影したが、単に今そこにある物が写っているだけで、西行が、かたじけないと感じるようなものは何も写らなかった。

 そのため、私は、原初的なピンホールカメラによる長時間露光という方法で、その場の空気を念写することにした。そして、その写真を見ながら、古代に思いを馳せ、文章を綴ってきた。

 なぜピンホールカメラなのか。

 まず、250分の1秒というカメラの超高速のシャッター速度が、自分が今そこで実際に見ている感覚と合致しているのかという疑問があった。

 というのは、たとえば私が巨大な磐座を凝視している時、その磐座の背後で風に揺れている木々の枝や葉は目に入っていない。私の感覚は、ただ揺れ動く気配だけをとらえている。にもかかわらず高速シャッターで撮られた写真は、全てを停止させ、葉脈まで見えそうな描写力となる。それは素晴らしい技術の結果ではあるが、そういう技術力に意識がいくと、磐座への意識は半減する。

 「なにごとの おはしますかは知らねども」という感覚は消えて、そこにある物の存在の主張が強すぎるという結果になるのだ。

 さらに、そういう高速シャッターを実現させるのは、弱い光でも強く吸い取るレンズの力だ。

 しかし私は、以前から、たとえば望遠鏡でとらえたとする宇宙の果ての映像を信じることができない。レンズというのは、企業の開発者が作っているのだが、製造過程において見え方を調整していく。なので最終的に、人間が見たい映像が得られるようにレンズは調整される。そして誰が見たいのかというと開発者の好みというより、開発者が同時代のニーズに配慮していくということになる。なので、たとえば、時々オールドレンズが人気になったりするが、人間が見たいように見せる映像ばかり見ていると、けっきょく飽きてしまうからだと思う。

 そして、宇宙の果ての映像というのは、レンズとコンピューターと、赤外線その他の電波の観測結果を合成したものであり、あらかじめ人間が想定している範疇のものを恣意的に出現させているにすぎないと思わざるを得ない。とくに、近年、ブラックホールを映像で捉えたというニュースが伝えられて話題になったが、少し前のヒッグス粒子の発見の大騒ぎと同様、とても胡散臭い。レンズを仲介にした映像というのは、私たちが信じているほど、”ありのまま”ではない。

 似たような理由で、私は、真実探求の誠実なスタンスとされる実証主義も、あまり信用していない。例えば考古学において、歴史的証拠が発見されたと大きく発表される時の多くは、あらかじめそういうものが出てきて欲しいとという願望の範疇、つまり専門家による説明可能なものが多く、その想定からズレていて誰にも説明できないものは、発見されていても、イレギュラーなものとして脇に置かれたままになっていることがある。

 本当は、そのイレギュラーとされているものから歴史を組み立て直さなければいけないかもしれないのに、それができる専門家はいない。そして、そういう新たな組み立てを邪魔する専門家も多い。自分たちの積み上げてきた研究の前提が崩れ、なかにはポジションを失う人もいるだろうから。

 真実の探求といいながら、実際には、古代ギリシャプロタゴラスなど詭弁家たちと同様、自分のポジションを守るために、他人を説得し状況を自己に有利なように展開する方法の探求をやっているにすぎないと思わされることも多いのだ。

 海外においては、エジプトのピラミッドより7000年も古いトルコのギョベクリ・テペ遺跡の発見や、日本においては、鉱山の歴史を500年も遡らせる徳島の若杉山遺跡の鉱山の坑道の発見(これまで日本の鉱山の始まりは8世紀の奈良時代とされ、大和朝廷の時代も邪馬台国の時代も、鉱物は輸入に頼っていたとされていた。)などは、これまで教科書で習った歴史をひっくり返す可能性がある。

 学説というのもまた、”つわものどもが 夢の跡” なのだ。幻であり、”数を尽くして変を極め、形に因りて移りゆくもの”(列子)である。

  そして、このたび、私は、もののあはれ源流を辿る足跡を一つに束ね、一冊の本を制作した。

 こちらのホームページでも、PDF画像ではあるけれど、その内容の全てをご確認いただくことができます。

 https://www.kazetabi.jp/sacred-world/ 

www.kazetabi.jp

  ただ、私が行ってきたような時空を超えた旅は、単なる情報提供ではなく、その空気をいかにリアルに体感していただけるかが重要なので、やはり、紙媒体でないと伝わりきれないものがある。

 ”もののあはれ”というのは、目だけでなく、手触りや香りなど全ての感覚を総動員して物事の背後にある何かにアクセスして心中に立ち上がる世界のリアリティであり、それを、西行は、”かたじけない”とした。

 それは、世界から身にあまるものを受け取っているという感覚で、日本人が昔から美徳としてきた謙虚さの本質もそこにある。

 現在、世界中を大混乱に陥れているコロナウィルスは、現代人が失っている謙虚さと関わることで、混乱をよりいっそう深刻なものにする可能性がある。

 もちろん、生命は大切だ。しかし、古代から賢人は、この世に生と死があるのではなく、生も死も変化の一つの相にすぎないと言っており、一つの相にすぎない生をどう大切にするかが鍵になる。

 限りある宿命の前に諦めて開き直るのではなく、また大切にするのだと主張して、単に執着するのも道理に反している。

 限られたものであってもそれを受け取れることに対して、かたじけないという気持ちが生じないようでは、生命を大切にしているとは言えない。生命を大切にしているかどうかは、生命に対する作法が、摂理にそったものかどうかによって示される。