世界で一番の不運と、イギリスのユーモア???



 広島と長崎の両方で被爆した男性について、英国BBCのクイズ番組が「世界で一番不運な男」と紹介し、それに対して日本大使館BBCと番組制作社に抗議を行い、テレビや新聞がそのことを報じ、twitterやブログで怒りが広がった。そのことについて、茂木健一郎さんが、次のように論じている。

http://qualiajournal.blogspot.com/2011/01/we-need-sunshine-not-bomb-qi-incident.html

 その内容は、原爆を実際に経験した日本人以外が、原子爆弾の真の恐ろしさや怒りを理解するのは難しい。それゆえ、BBCとこの番組制作会社は、日本人が被った被害に対する想像力が欠け、20世紀で最も大きいトラウマの一つに対しての配慮ができなかった。しかし、今回の騒動は、BBC側の意図的な悪意ではなく、コミュニケーションの問題ではないかと、茂木さんは論を展開する。

 イギリスに留学経験のある茂木さんは、英国のユーモアのセンスを敬愛し、このクイズ番組も大好きで、英国のユーモアのセンスは、時に社会の難しい問題を浮き上がらせ、人を触発する力があるが、やりすぎて人を傷つけてしまうこともある。

 今回、そのユーモアの精神で日本人を傷つけてしまったことは残念極まりない。しかし、イギリスのユーモアは綱渡りのように緊張感のあるもので、そうした困難に果敢に切り込んでいく英国コメディの、リスクを負う勇気は評価に値する。だから、いたずらに怒りを増大させるのではなく、この事件をきっかけにして、日本とイギリスの間で更にコミュニケーションを深め、憎みあうのではなく、明るく笑いあえるようになろうと呼びかけている。

 相手の配慮に欠ける行動を一方的に責め、相互に不信感をつのらせ、憎悪し合うことはやめよう。怒りにまかせた発言は慎み、相手の立場も理解して、一つのトラブルを相互理解のきっかけにしていこうという、非常に知的でスマートな内容。

 

 その番組は、次のような内容だった。

http://blog.goo.ne.jp/mithrandir9/e/5d8249376ac2592288a873dcbf11e412

 

 この内容を見るかぎりにおいて、社会の問題を浮かび上がらせ、人々を触発するコメディの意義がどこにあるのか、欧米流インテリジェンスの足らない私には、さっぱりわからない。これを評価しなければならないとしたら、私の心理は、かなり屈折したものになる。

 なんというか、けっきょく、欧米に負けてしまった者が、自分にはちょっと納得しがたいのだけど、それでもやはり欧米流というものを理解して身につけなければ、この世界で生きて行けないのかなあという気分になる。

 そういう屈折心理抜きに、評価なんかできやしない。自分を屈折させたくなければ、無理矢理、評価する必要もないだろうと思う。

 つまらないものは、どう理屈をこねて面白さを正当化しようが、つまらない。

 それは、敵対心とか、そういうことではない。

 また、ただつまらないと感じるだけではない。イギリスのユーモアを理解するかしないか以前の問題として、この番組の流れは、日本も含む現代の先進国全般における問題が、含まれているような気もする。

 茂木さんの言うように、お互いが無理解のまま憎悪し合うのは愚かなことだろうが、こうした番組の中に垣間見える現代社会の一種の病を見落としてはならないだろうと私は感じる。それは、イギリスを非難する材料としてではなく、自らの中にも巣くっている問題として。

 私が思うに、今回のBBCの問題は、日本の被爆者に対する想像力の欠如以上に、自国も大量に保有して政治的駆け引きに利用している核爆弾に対する想像力が欠如し、麻痺感覚に陥っているところにあるのではないか。

 日本は唯一の被爆国であるが、日本に対する悪意の有無ではなく、人類の体験として過去形扱いになっている「原爆」を、二つのキノコ雲などという記号的言語とともに笑いの素材にしている状況が、なんとも空疎で不気味だ。

 コメディに本当に前衛的精神があるのならば、現代進行形の「原爆問題」に対してこそ、綱渡りの絶妙なバランス感覚で切り込んでユーモアにすればいい。

 クイズ番組の流れを見るかぎり、そういう緊張感があるとは思えず、全体として、あまりにも弛緩しているのだ。

 これを見る者が、現在、我々が抱えている社会の問題の、いったい何を喚起され、触発されると言うのだろう。

 二度、原爆に被爆した人の不運さが笑いの題材になるということは、「一度でも、それはめったにないことだぜ、ましてや二度も・・」というニュアンスがどこかに含まれている。

 今日の世界には、英国も含めて、数千発の原爆があり、その保持のためにも莫大な税金が投入されているわけだが、それらの原爆は、完全に抑止力として機能するものであって人間を殺戮する可能性など全くない、と、どこかで高を括っているとしか思えない。

 「原爆がその人の上に落ちて、ポーンって跳ねた」とか言うコメントを聞いて他人事として爆笑している人の頭の上に、核弾頭が何発もぶらさがっていて、そのことを見ずに、その爆弾のために、一生懸命に働いて得たお金をせっせと払っているイメージの方が、ジョークだ。

 そうした鈍感さは、いったいどこから来るのか。その鈍感さと、人々を鈍感に導くものこそが、現代の先進国に蔓延している病だろう。

 今回のBBCに限らないが、コミュニケーション不足以前の問題として、人々の想像力を奪う方向に、メディアをはじめ言論が導いている。

 その最大の原因が、実際に起こっている出来事の複雑精妙さを丸ごと伝えようとする困難さから早々と背を向け、「世界一不運な男」といった類の記号化によって安易に総括してしまうこと。そして、本質的な問題とは別の周辺知識で人々を巧みに「わかったつもり」にさせるインテリが多いこと。

 こうした現象は、お茶の間に流されるメディアを中心に蔓延している。食後とか食中に、ぼんやりした頭で触れる情報として、その程度のものが好まれるということもある。しかし、そういう娯楽性のなかだけに問題があるのではない。学校教育などでも「大化の改新、645年」と年号を覚えて歴史を学ぶこと等が典型だが、随所に、記号的断片の蓄積量を競うことが当たり前になっている。

 そうした色々な記号的情報に通じ、それを誰にでもわかるように説明できる人が、メディアでも重宝され、お茶の間でも人気になり、尊敬される。

 「記号」が何を示しているかは、一応、その記号を覚えている人ならば、誰にでもわかるということが前提になっている世界を作り、記号を右から左に動かせば、何かしらの出来事が生じているとされる。こうした感覚が共有されているからこそ、金融界をはじめ、あちこちに、実態がどこにもないのに異常に肥大化するバブリー現象が出現するということが繰り返される。

 645年といえば大化の改新、キノコ雲といえば原爆。それだけでは何もわかったことにならないのだけど、とりあえず、それで片がつく。だから、伝達スピードも異常に速く、肥大化する。記号化社会というのは、そういうものだ。

 「イギリスのコメディというのは、風刺性に富んでいて、挑戦的な芸だ。そのように覚えておけば、コメディの素材として何が用いられようが、目くじらを立てることはない。」

 そういう情報知識を持って、スマートにコミュニケーションをすることが、先進国の知的な作法であるからして、そういう情報知識をどんどん身につけておこうよと、先進国の知識階級は啓蒙している。そういう構造が強化されればされるほど、知識人の地位は上がるのだ。

 しかし、そのことについて説明される無数の記号的情報知識よりも、それそのものに触れることから自分の感じ方や考え方を積み上げていくことなしに、失われていく想像力を取り戻す道はないだろう。

 想像力が失われた人々によって辛い目にあわせられるのは、かつて二度も原爆に被爆した人ではなく、想像力を失っていく人そのものなのだ。

 想像力を失い、記号的な情報ばかりに囲まれている人々は、世界とのあいだに分厚い膜を作ってしまい、世界そのものとの接点を失っている。

 全ての出来事が、テレビの画面を通じて、テレビのなかの有名人が話しているようにしか伝わってこないとしたら、誰しも避けて通れない自分の人生の節目に、すなわち、世界そのものとダイレクトに関わって行かざるを得ない時に、自分のなかの何を拠り所にして判断していけばいいのか。

 記号的情報が満載されたハウツーを何冊も読み、テレビの有識者が語っていることを鵜呑みにして行動すれば、必ず、痛い目に合うことになる。

 誰にでも当てはまりそうな答えは、個々の微妙なケースを削ぎ落としており、削ぎ落とされてしまった言うに言われぬものが、ぎりぎりの局面で、自分に向き合わさせてくれる力だろう。

 本当に困難な状態に陥った時、自分に向き合うことなく他人から借りてきた一般的な答で、易々と乗り越えられることは、まずあり得ない。