物事が変わる節目



 フランスの国立図書館の日本の芸術書籍分野で、風の旅人の創刊号から最新の第43号まで買いそろえてくれると聞き、少し自信を持つことができた。その自信というのは、単に誌面の内容とか質のことではない。こうした思いもかけぬ出会いが、人生には突如として起こることがあるので、厭なことが続いても決して捨て鉢になってはいけないという、運命への信頼のようなものを取り戻せたと言った方が正確かもしれない。

 43冊の『風の旅人』が売れたからといって採算がとれるわけではないし、運営が厳しいのは変わりなく、いろいろな副業を抱き合わせでやっていかなければならないことは今迄と同じだ。

 また日本の図書館は、住民のニーズに応える為と言いながら、どこの書店でも買えるハリーポッターを買いそろえるけれど、『風の旅人』を買いそろえてくれるところなんか存在しない。一人の担当者の英断で物事を決められない世界なのだ。このまま、こんな世知辛い日本の出版世界でやり続けていて、この先いいことがあるのだろうかと悲観的になることは多々ある。 

 フランスの国立図書館の担当者は、パリのジュンク堂で販売している『風の旅人』の第43号の一冊を見ただけで、全ての号を買いそろえることを決定した。一人の人間の裁量で決められるところが、日本とフランスの違うところか。

 信頼され、任せられ、予算を与えられ、その予算の範疇で自分が良いと判断するものを買うことが正当に認められているのだろう。住民の意見がどうのこうのと、判断の責任が個人に降り掛からないようにする日本の決裁システムではなく、判断の責任を個人が負い、その責任を果たすために日頃から自分を感性を鍛え、学習を重ね、精進すること。それらの努力が、仕事のやり甲斐につながるシステムと、それを使いこなす術を、彼等は身につけているのだろう。

 昨年、細江英公さんがイタリアのルッカで展覧会をした時、ルッカの展覧会担当者達が非常に勉強しており、かつ自分の考えを明確に持ち、きちんと意見を交わしながら展覧会を良いものにしていこうとエネルギーを注ぎ込む姿に、とても感動したと細江さんが言っていた。

 日本も個人的にはそういう人がけっこういるのだが、公の機関の担当者は、まったくそういう感じでなく、がっかりさせられる。公でなく民間でも、事務的でステレオタイプで、不勉強ゆえに自分の好き嫌いででしか物事が言えない人が多く、対話が成立しずらい。

 私は日本が悪いと思っているのではなく、現在の日本に覆い被さっている西欧の形式だけを借りたようなシステムが、日本人本来の良さに蓋をしてしまう結果になっているのではないかと思うのだ。

 実際のところ、西欧は、日本とまったく違う原理で動いている。つまりシステムは、形は似ていても、それを使いこなす人間によって、まるで違うものになってしまう。日本人には、日本人の性質に向いたシステムがある筈なのだ。

 同じ機械論的なシステムでも、もともと自立心の強い西欧人は、自らが機械化することに抵抗するが、もともと自立心が弱く協調性を重んじる日本人は、自らが歯車となってしまうことに対して抵抗することさえ躊躇ってしまうのではないか。

 日本人の良さを発揮させるためには、まずは機械論的なシステムを変更していくことから始めなければならない。

 それに変わる方法は、一人ひとりの中に隠れている。どうすればいいか生理的に知っている筈なのだけど、西欧的に教育された頭が、その感覚を解放することを邪魔している。

 それはずっと閉じ込められたままということにはならず、何かしらの出会いがきっかけとなって開かれていくのではないか。思いもかけぬ出会いが、必ずどこかであるのが人生であり、捨て鉢になってはいけないのだ。表現の本質というのは、そうした思いもかけぬ出会いであり、その出会いによって、これまでと違う回路が開かれていく。

 私は、フランス国立博物館が全ての号を買いそろえてくれるという、思いもかけぬ出会いによって、自分の中に新しい回路が生じた。その回路にしたがって、風の旅人を、新しく作り替えようと決心した。出会いが、自らが行いうる可能性の種を運んできてくれたのだ。