STILL CRAZY

2011年7月26日から8月11日まで、東中野のポレポレカフェで、広川泰士さんの写真展「STILL CRAZY」が開催されます。それに伴い、7月30日(土)の19時から、広川さんと私でトークショーを行います。8月5日(金)には、本橋成一監督や写真家の村越としやさんと広川さんのトークショーがあります。

入場料の一部は、このたびの震災で被害に遭われた方のための義捐金となるようです。また、7月30日(土)にご来場いただいた方には、広川泰士さんの作品が掲載された『風の旅人』の第16号か、第30号を、進呈させていただきます。

8月5日(金)の来場者にも、何かしらのプレゼントが用意されると思います。(今はまだ未定)

http://za.polepoletimes.jp/news/2011/06/2011726.html



  このたびポレポレ座で行われる広川さんの写真展は、広川さんが、全国全ての原子力発電所(撮影当時53基)を、大型カメラで丁寧に撮影したものです。

 また両日のトークショウで特別に行われる広川さんのスライドショーには、原子力発電所以外に、3月11日の巨大津波の後、広川さんが現地で撮影してきた写真や、高速道路やダムをはじめ、戦後日本が積極的に行ってきた国土開発の様子をとらえた写真も紹介されます。

 広川さんは、これらの写真を、4×5インチもしくは8×10インチという大型カメラで撮影しています。機動力のある小型の一眼レフカメラは、撮影者の狙いが強く反映されますが、大型カメラの場合、撮影者の意図はあるにしても、それを超えて、いろいろなものがフィルムの中に入ってきます。

 人間の眼というものは、見たいものだけを見ます。たとえば目の前に長閑な田園風景が広がっていて、その前に電線があったとしても、人間は、その電線を気にせずに田園風景の美しさを堪能できる眼を持っています。しかし、同じ風景をカメラで撮影すると、目の前の電線が、俄然、存在を主張し始めます。

 それでも、フィルムサイズの小さな一眼レフカメラは、立つ位置やアングルなどを変えることで、長閑な風景だけを切り取って電線を排除することも可能になる。もちろん、それでも撮影者の意図を超えて目には見えていなかった様々なものが写り込んでくるのが写真の力なのですが、大型カメラは、そのサイズ分、人間の意図によるゴマカシがききにくい。

 眼を見開いて見ているのだから、可視光線の範疇であれば全てが見えていてもおかしくはないのですが、人間の眼は、見るものを選択している。ならば、まったく見ていないのかというと、そうではなく、見ていることを意識せずに見ていて、そのまま記憶化していることがある。そういう場合、意識の中では覚えていないのに、何かをきっかけにして、突然、自分はそれを見ていたけど知らないふりをしていた、と気づかされることがある。

 広川泰士さんが大型カメラで丁寧に撮った全国の原発や、日本列島改造中の写真などは、実際にこの眼で見たことがあるという意識的な記憶がなくて、一瞬、驚かされるものもあるが、それでも次の瞬間、自分はそれを知っていたことに気づく。少なくとも、自分の想像を超えたイメージではない。だから、彼の写真を見ると、今まで見たことのないものを見た時の驚きではなく、自分の潜在意識の中に隠れている何かしら気になるものが、写真の中に明確な形となって表れていることに対する引っかかりが生じるのだ。広川さんは、そういうものを取り出すことを狙いとして撮影しているのではなく、おそらく漠然とした感覚に呼ばれてカメラを設置して神経を集中させる行為を重ねることで、それらが写り込んでしまっているのだろう。だから、その写真行為は、政治家や電力会社等を攻撃する激しい告発ではなく、もっと静かな提示となる。しかし、その静けさは、不気味でもある。その不気味は、福島原発放射能漏れの報道でよく言及されるような、自分の知らないところで忌まわしいことが進められているという被害意識とつながった不気味さでなく、忌まわしい出来事と自分が無関係だと言い逃れできないような、静かだけれど確かで不気味な迫り方なのだ。

 写真は、「見たことのない珍しいものを見せてくれるもの」とか、「自分が直接見ることのできない遠くのものを見せてくれるもの」だと言われることが多い。しかし、今日のような映像過剰時代においては、好奇心をそそらせる珍しい画像は、ほとんどなくなっている。好奇心の刺激を追い続ける人は、目先を変えるために奇をてらったことをするけれど、そういうものはすぐに飽きられてしまい、そのサイクルは、どんどん短くなっている。

広川さんの目線は違うところにある。彼は、仕事の合間に事務所のベランダで、その辺に落ちている枯葉を大型カメラでじっくりと撮影したりしている。ふだん私たちが、「落ち葉」という記号を使うことで、わかったつもりになり、見ているつもりで実際にはよく見ていないものを、写真を通して眼前に提示する。被写体が、道端の落葉から、原子力発電所や高速道路やダムなどになっても同じだ。好奇心を煽ったり、衝撃的な状況を切り取って怒りなどの強い感情を呼び起こすことを目的としているのでもない。

 敢えて言葉にするのならば、「日本のこのヘンテコリンな状況を、間違いなく知っているよね、その輪の中に自分もいるよね、いくら見て見ぬふりをしていても、そのヘンテコリンさは、ジワジワと広がっていくね。その不気味な感覚は、心のどこかで知っているよね。別のことに視野を限定して、意識を遮断しているとしても」

 写真を通じて、「こういう事実があるよ!」と、外に立って主張されるのと、「この中に、あなたも、そして私もいる」という伝わり方は、全然違う。広川さんの写真の伝わり方は、常に後者だ。前者は、自分を正義の側に置いているが、どんな正義も、主張の対立を起こすばかり、裏にまわれば全然異なる事実があるということを、私たちは歴史のなかで学んできた。

 「この中に、あなたも、そして私もいる」。このたびの写真展のタイトルである「STILL CRAZY」が指しているのは、政府や東電という限定的な組織ではなく、“同じ輪の中にいる者”すべて。でも、広川さんの写真が、そういうことを声高に主張するわけではない。広川さんは、日本国中にある53基もの原発を大型カメラでコツコツと撮り続けるという、政治運動というより、どちらかというと誠実な職人気質の仕事によってのみ可能な、「同じ輪の中に、あなたも、そして私もいる」というひそかな語りかけを、無意識のうちに行い続けているだけだ。