”しかたなく”ではなく、”とりあえず”の力

ここ数年、日本社会の様々な局面に閉塞感が漂う。その原因は、既存のシステムと人間の意識や感覚との間にズレが生じているのに、既存のシステムの上に社会や人間の営みが成り立っていて、それを簡単に変えるわけにはいかないという社会的プレッシャーがあるためだ。

その社会的プレッシャーというのは、政治家や官僚など体制側と言われる人たちだけが作り出しているのではなく、私たち一人ひとりの意識の持ち方や行動形態が寄せ集まった結果として作り出されている。

たとえば、一流大学や一流企業に行くことが将来の素晴らしい人生につながるのだと、かつてのように盲目的に信じられるような状態ではないが、といって他の選択肢がわからないので、しかたなく、そこに行っておこうと考える人は、一生懸命に努力をして、そうした構造の強化に貢献しながら、心の中では空虚なものを抱え続けることになる。

大学で教えている先生たちも、現在の大学の在り方などに多くの疑問を感じながら、他の選択肢が見えないし、自分も食いぶちの確保が必要なので、しかたなく現状に即して対応し続ける。大学に正式に雇われている人はまだいいが、非常勤で講師をやっている(また、その機会を欲している)人は、来年どうなるかわからない状況のなかで、いつか大学のシステムのなかに自分がきっちりと組み込まれて安定できる日が来ることを願いながら、日々、努力を重ねることになる。しかし、その大学が、将来も安定したシステムとして残り続けることを盲目的に信じているわけではないので、努力しながらも、どこかで空しさと不安を抱え続けることになる。

原発問題にしても、これだけ様々な問題が噴出して、継続していくことが困難であることは誰の眼にも明らかだ。しかし、原発は、火力発電に比べて初期投資金額が大きいけれど、ランニングコストは安いという構造を持っている。

すなわち、一度作ってしまうと、続けないと初期の投資を回収できず、借金も返済できない。そのように、最初の投資は大きくても一度動き出すと継続的に安定的に利益が得られるという構造を作り上げることで、多くの人間を養っていくという状況が、原発に限らず現在の日本社会の様々な分野に見られる。

しかし、技術や価値観は猛烈なスピードで更新される。一度作り上げた巨大なシステムは投資を回収する前に古くなってしまうが、だからといってそれを簡単に認めてしまうわけにはいかない。そのため、時間稼ぎをする。数年前、NTTが、光ファイバーの技術を持っていながらソフトバングのADSLにプレッシャーをかけられるまで光ファイバーを急速に普及させることを望まなかったのは、既存のシステムが稼ぎ出す利益によって、大勢の人間が、食いぶちを得ていたからだろう。

そのように、新旧のあいだには必ず確執がある。歴史のなかで、そうしたことは何度も繰り返されてきた。外側からの圧力による場合もあるだろうし、内側の変化が、臨界点を超えて、旧体制を崩壊させていったこともあるだろう。

現在の日本社会を俯瞰してみると、明治維新のように外側からの圧力によるものではなく、内側の変化が少しずつ臨界点に近づいて、全体のパラダイムシフトが現実化するのではないかと感じさせるところもある。

現代と同じようなことが、これまでの日本の歴史のなかにあっただろうかと思いを巡らせる時、紀元後1000年頃が気になってくる。

1000年前は、平和で官僚的な平安時代が少しずつ終焉を迎えつつある頃だ。

奈良時代から平安時代は、明治維新後、日本社会が急速に西欧文化を吸収していったように、遣唐使などを通じて大陸文化を吸収し、その翻訳言語(当時は漢文、現在は英語)をしっかりと学習することが知的エリートになるための条件で、文字によって書かれた事実を確定事項とし、曖昧さをできるだけ排除することで律令制という社会秩序を盤石にしようとした時代だ。

平安時代の貴族であり、学者であり、政治家だった菅原道真は、政治抗争に敗れて九州に流され、怨霊となって人々に恐れられ、後に学問の神様となった。彼の歴史的な業績は遣唐使を廃止したくらいで、彼以上に学問の神様としてふさわしい人物が多くいる筈なのに、なにゆえに、あれほどまで彼が畏れられ、奉られているのか、私は不思議でならない。

彼が怨霊となる原因も、政治の一線から退けられ、九州に流されたくらいで、歴史上には、彼とは比べ物にならない酷い仕打ちを受けた大人物はいくらでもいる。

平安時代は、怨霊に人々が苦しめられた時代だが、怨霊というのは、いったい何だろうか。

私は、怨霊というのは、「そういうものが存在すると信じ、そう信じることによって、自分の人生が大きな影響を受けてしまう心の在りようや、それをそうだと信じる人の数が多いことで、現実化するもの」だという気がする。

だから、平安時代に限らず、たとえば一流大学を卒業して一流企業に就職することが人生の意味だと信じ、その道から少しでも外れてしまうことを極端までに恐れる時、それは、怨霊に取りつかれているのと同じことではないか。

頭でっかちに一つの価値を決め、その硬直した価値に自分が縛られてしまう時、人は怨霊に取りつかれているのと同じような状態になる。

人間が、頭のなかに作り上げる概念にとらわれる時は、比較的、平和な時代なのだろう。大震災や戦国時代などのように生きるだけで精いっぱいの時、怨霊に取りつかれている暇がないように思う。

平安時代も、長く平和が続き、官僚社会がいきわたり、怨霊が人生に大きな影響を与えた時代だった。

そうした頭でっかちの社会は、漢字で知識を身につけていた男が作り出していたが、人生や世界の本質的な意味など関心外のこととなり、目先の利益や出世のために権謀術数ばかりが繰り返されて、社会が行き詰まった時、女性表現者のあいだから源氏物語など「かな文学」が出てきた。

万物は常に流転しているから、物事を文字によって意味づけてしまい、確定させてしまわないことは大事なことだろう。確定させた方が行動の指針となりやすい。しかし、その行動は、変化が生じた場合、修正しにくい。確定させないまま行動し、行動しながら必要に応じて修正していく柔軟性。そうした柔軟性は、曖昧だとか、主体性がないという理由で非難されやすいが、世界が変化していく本質を備えているかぎり、柔軟性による順応力は、とても大切な能力だ。

間合いとか、余韻とか、含みといった、現代の日本人も維持し続けている高度な不確定順応力は、「かな」によって育てられ、継承されてきたのではないか。

物事を確定させるためには、流動的な時間を停止させなければならない。しかし、そのように確定させた瞬間、状況は次の段階に移行している。現代の多くの知的言語が現象の後追いになるのは、そのためだろう。

物事を安易に確定させてしまわず、全体の流れを浮かび上がらせ、全体と細部を響き合わせ、そのなかに微妙な綾を織り込んでいくことで、人間と、それを取り巻く世界というものがいったいどういうものであるのか指し示していくこと。源氏物語をはじめ、今から1000年前に試みられた新しい表現手法は、その後の日本の歴史のなかに脈々と受け継がれている。

近代に入って、西欧の事物や思考を輸入する段階においても、日本人は、「かな」を持っているがゆえに、“意味”を確定させることなく、“音”だけを、とりあえず頂戴するという形をとっているものが多い。

主体性がなく無気力で後ろ向きで集中力のない“しかたなく”ではなく、変化に対して鋭敏に対応できる緊張感を伴った“とりあえず”。「とりあえずビール」と言う時、ネガティブな気持ちなのではなく、ビールを一飲みして、その日の体調を探り、自分の中に潜在化している欲求を探り、メニューを見ながら自分のなかのニーズと現実的に獲得できるものとの一致点を見出していくという前向きな喜びが秘められている。ビールを飲むことしかしらないから頑固にビールを選び、しかたなく飲み続けるのではなく、体調とか店の特徴に応じて最善を求めて対応できる柔軟性。将来進むべき道がわからない時、「しかたなく」とか、「それしか知らないから」という理由で何かを選択して自分を固定化してしまうのではなく、”とりあえず”やるべきことをやりながら、次の動きへの準備だけは進めておく。そういうポジティブな「とりあえず」で行動できる思考特性とコミュニケーションを可能にしていく力が、“かな”には含まれていたと思う。

 源氏物語は、主語が省略されて誰のことを指しているのかわかりにくいけれど、とりあえず聞いているあいだに、おぼろげに言葉が重なっていき、だんだんと世界が立体化して、関係性があらわになってくる。

 そうした世界の奥行きは、視覚言語よりも、朗読などの語りによって、いっそう感じられやすい。

 耳というのは、運動神経とつながっており、すなわち身体感覚として世界を感受していくことになるからだし、聴覚言語は、視覚言語のように、わからない部分があれば自分の意思によって全体の流れを停止させてしまえるものではなく、わかろうがわかるまいが、たゆたうような時間のなかに身を置きながら、世界全体を、“とりあえず”感受する性質のものだからだろう。

 わかろうがわかるまいが、とりあえずやってみる。とりあえず行動してみる。そして、“とりあえず”が作り出してくれる機会を生かすために、心の準備だけはしっかりとしておく。閉塞状態は、“とりあえず”による揺らぎによって、開かれたものになっていく可能性がある。

 日本のどんな古典でも、わかろうがわかるまいが、とりあえず触れてみる。そうしているうちに、自分のなかに内在化しているけれど自覚できていなかった感覚が浮かび上がってきて、現状を、西欧的ロジックとは違う視点で、見つめ直すことができるかもしれない。 

 現在、発売中の「風の旅人」第43号「空即是色〜The Nature Of Nature」に、「うぶすなのこえこだまする」の原稿を寄稿している山下智子さんの、源氏物語の語りが、6月18日(土)と19日(日)、明治大学前のキッド・アイラック・アートホールであります。

詳細と問い合わせは、とりあえずこちらまで→ http://kyo-kotoba.sakura.ne.jp/11-5-6.html