赤木さんのコメントへの私なりの回答

 赤木さん はじめまして。バブル期のバイト事情はよくわからないのですが、私が放浪に出たバブル以前の時は、日本に帰ってきた時に受け皿があるとは思いませんでした。受け皿を期待するどころか、日本が厭で仕方なく、自分の居場所をどこか他の場所に求めていました。

 でも諸国を放浪しているうちに、けっきょく自分は日本で生きるべきだと考えて帰ってきました。日本を出発する前の二年間、そして、日本に帰ってからの二年間、夜の飲食店で時給650円(晩飯付き)〜750円で毎日6時間ほど働いて、風呂無し、トイレ共同の安い部屋に住んでいました。ぎりぎりの生活をしながらではありますが、海外渡航費は稼げましたし、海外でも、不法であっても仕事をしようと思えばできました。食と住だけまかなえるくらいの報酬ですが。

 当時の新聞での求人は全て「大卒以上」と明記されていました。だから、私はアルバイトニュースで定職を探すしかなかった。今はけっこう学歴不問の企業があります。それが建前であっても、面接を受けられるだけましで、バブルに向かって邁進する社会では、学歴のない者は、きちんとした企業の面接すらできませんでした。

 でも考えてみれば、「学歴がない」状態であるかぎり、「学歴にこだわる」世界で生きることは、生涯ハンデを背負うわけですから、ばかばかしいです。「学歴に関係ない世界」を探すか、自分で作り出すしかない。今だって同じでしょう。今は、自分の店や会社をはじめることが100%不可能な時代ではないと思います。むしろ今の方が、そのチャンスは多いような気がします。フリーターを減らすためには大企業が採用の仕方を変えなければならないなどと、フリーターと大企業の採用のあり方がセットになって議論されますが、大企業で働く人生がそんなに幸福なものだとは、放浪前も現在でも私は思えません。この社会にはその二つしか生き方がないわけではなく、その間に無数の仕事があると思います。

 ただ、既得権にしがみついている人は確かに大勢いて、またそういうつもりはなくても、思考特性が前例にならえ(イコール既得権組の体制強化)の人が大半で、従来の仕組みが簡単に変わりそうもないことも事実です。

 私は雑誌を創刊した時、雑誌コードをとるために流通会社に掛け合ったのですが、編集長と編集者の経歴、学歴、これまで出してきた出版物の実績などの書類を求められました。私の最終学歴は高卒だし、出版実績はまったくないし、話しにならないという感じでした。

 だから創刊号は、書店と交渉しました。運良く、書店に並んだ創刊号を見た新聞社の人が書評でとりあげてくれました。しかし、雑誌コードは、そういうのは関係ないということで依然としてダメでした。

 しかし面白いことに、書籍コードは、道が開けました。おそらく雑誌は編集者の実績がものをいうけれど、書籍は内容次第という判断が流通にあるのでしょう。運もあって、なんとか書籍コードは手に入ったので、「風の旅人」は、雑誌ではなく書籍コードで流通しています。最初はトーハンだけで、ニッパンなどそれ以外の流通会社はようやく第5号からですが・・。書籍コードで雑誌を流すのは、発売10日前に見本誌を提出することが義務づけられるなど色々制約が多く苦しめられますが、しかたないので、それでやっています。

 私は、学歴もそうですが、「○○業界の経験がある」なんてことはまったく信用しておらず、(そこに所属していたというだけのことと、その人の能力は無関係)、今の私以外の2名のスタッフも、この仕事をする前はフリーターでした。

 これからの数年で何かが変わるとは思えませんが、10年、20年と考えると、現在たとえ待遇がよくても自分の意思で仕事ができない世界にいるより、待遇は悪くても自分の意思で仕事ができる環境にいて自分の軸を太くしていけるような生き方の方が環境変化などにも強くなるし、自分の意思を示すことも自然にできるようなって、窮屈でない人生になるような気がするのは私だけでしょうか。

 大学を卒業する時期に人気業種で苦労して入社したのに、自分が壮年期になった時に沈没しているということはよくあります。自分の意思よりも世間の評価とか人気を優先すると、だいたいにおいて、後で裏切られるのではないかと思いますし、たとえそうでなくても、 いくら大企業に所属していても、自分の思うようなことを何一つ言えない人生がそれほどいいとは私には思えないですね。

 もちろん自分の意思で仕事をできる環境を見つけたり作ることが一番難しく、それができれば誰も苦労はしないと思う人も多いでしょうが、それを言うならば、果たして、その自分の意思がどれくらい確固たるものか、を自分に問う必要もあるでしょう。自分の意思が曖昧だから、その対象が見つからないという人の方が多いかもしれません。

 戦後の日本の教育の特徴は、客観性や平等性を口先で重んじるばかりに、その人の意思(自分は何をどうしたいのか)というものを養ってこなかったことではないかと私は思います。しかし、人間だから、まったく意思を持たないということはない。結果として作られた意思は、「何をどうしたいか」ではなく、「何をしたくないか」という否定に関するもののような気がします。否定の意思ばかり増大して、それに変わるものを思いつかないし見つけ出せない、というのが、現代社会および、そこに既得権としてはびこっている「知」の世界の状況ではないかというのが私の認識です。そして、その認識のうえに、何をどうしたいのか、というのが、既得権組に辟易する立場の者の持つべき意志だと私は思います。

 そういう意味で、その「何をどうしたいのか!」が、「戦争」だと思う人がいるのかもしれません。しかし、近代以降の戦争は、意思で行われるというより、意思を完全に奪い取って、一人一人を完全に機械化して行われるところが、一番の問題だと思います。当然ながら、私もその機械のなかにがんじがらめに組み込まれてしまうわけですから。

 もちろん、「戦争」というのはある種の比喩であって、反体制派ですら既得権組に仕事や権益が集まる(テレビのニュース番組などその最たるもの)現状において、それが変わらなければ反体制派が拠り所にしている「平和」すらおぼつかないよ、ということなのでしょうが。

 ここまで書いたものは、自分の経験を引き合いに出して、「自分も若い時はそうだった、しかし・・・」と語る良識人ぶったいい方になってしまっているかもしれません。

 しかし、人はけっきょく自分の経験を元にしないと、自分にとってリアルな意見を言えないのではないかとも思います。

 今の20代、30代の人で「学歴」のない状態でも、自分なりの方法で生き抜いている人は大勢いるでしょう。「ポストバブル世代」とか、「フリーター」とか、単純化した言葉で全てを一緒くたにして客観的分析で語るのではなく、一人一人が自分の経験を元に一人称で語り、どれが合っているか間違っているかではなく、その全体からにじみ出るニュアンスのようなもので、「時代」を感じ捉えるべきではないかと私は思います。