第1131回 無念を承知の人生。

 池袋で、鬼海弘雄さんの供養のための飲み会が終わった。鬼海さんの本当の供養は、という話となった。鬼海さんが、あちらの世界で、もっとも喜ぶであろうことは?
 人は、この世を去ることで、良い意味で悪い意味でも。その存在が、永遠となる。人は亡くなっても、間違いなく生きている人間の記憶の中に存在し続けているので、たとえば、自分が何かをする時に、あの人が生きていたら何と言うだろうと考えることもある。
 古くから日本人は、死んだら誰もが仏になるとしてきたが、亡くなった人でも、あの人が生きていたらどう言うだろうかと考えてしまう人と、まったくそういうふうにならない人がいる。やはり、この違いは大きいのではないかと思う。
 そのように故人のことを振り返る時は、その人の地位とか名声とは関係なく、その人の生き様が偲ばれる。
 人は、死んでしまったら、地位も名声もお金も関係なくなるが、その人の生き様が美しいものであったかどうかは、後々までけっこう大きな意味合いも持つように思う。
 生き様の美しさに対する判断は、人それぞれという見方もあるが、果たしてそうだろうか。
 人それぞれ、すなわち価値観の多様性ということで煙に巻かれることが多くあるが、人は誰でも根本的には同じということもある。
 そして、歴史を振り返ってみても、生き様の美しさとして語り伝えられているものの多くが悲劇なのだが、悲劇が、時代の価値観を超えて、人々の心を打つ何かしらの力を秘めていることは確かだ。
 今日、小栗さんが、映画を作ってきたことは、無念を積み重ねてきたことにすぎない、という言葉をポツリと発した。
 小栗さんは、カンヌのグランプリを獲得するなど、客観的に見れば、映画監督として成功者だと見られるが、当人は、まったくそうは思っていない。
 無念を承知で作り続けることは、見返りのないことを承知で作り続けるという、ある種の悲劇性を帯びている。
 いったい何のために?
 それはもう、その人の美意識、生き様というしかないが、信頼できる表現者というのは、無念を承知で作り続けている人だ。
 鬼海さんもまた、計り知れない無念の思いを積み重ねて、写真を撮り続けていただろう。
 何かしらの見返りを前提に、ということが透けて見えるような底の浅いアウトプットや、媚びた迎合が氾濫しているが、そういうものに心を預けていると、自らの生き方を判断する力すら失ってしまう。