無駄の価値と、権威

 昨日の夜、今日の社会や未来に関して、爆笑問題と各分野の大学の先生が討論する番組を見た。

 既にどこかで聞いたような話が多く、何か新しい視点を得られることはなかった。爆笑問題にも突っ込まれていたが、各先生は、現在の大学が昔に比べて面白くないと語るのだが、自分たちこそが大学の権威的構成員として学生と向き合っているわけであって、大学が面白くないというのは、自分たちが面白くないということなのだ。

 彼らには、その自覚があるようだが、そこから脱する道筋が見えないという感じだった。

 さらに、「社会全体を見ても、昔なら見本になったような人物がいたが、今はそれが見当たらない、それが若い人の無気力につながっている」とも言う。

 何をもって「見本に」にするのかというところが、その人の価値観なのだけど、「見本がない」と思うのは、「対象」に問題があるのではなく、その価値観じたいがステレオタイプで現在からズレているからとも言える。

 そして、そのズレた価値観が、大学をはじめ権威を構成する人々のなかにしっかりと根を張ったままだから、それらの人々が自分のポジションを利用して自分のズレた価値観を浸透させ、同時に、自分でも大して面白くないと自覚しているものを再生産し続けるということになってしまう。

 そうした連続が“場”を活性化させることにつながらず、結果として淀み(面白くない)を感じさせる。

 「権威」というのは、政治権力などを指すだけでなく、正しいとされる価値観の支配者だと私は思う。

 その正しさによって社会の秩序ができる。その正しさを存分に発揮する人が、必然的に、ヒエラルキーの上部にきて、その正しさを強化する。

 「テストの正解率」が、正しさの優先順位が高い社会では、それが得意な人が上位にきて、「テストの正解率」の正しさの優先順位を強化する。それは単に自分の保身のためということだけではなく、自分の価値観が強くそうなっているからであって、自分の価値観を疑わない限り、その傾向は変わらない。

 現代社会をつくりあげてきた優先順位の高い「正しい価値観」は、ほとんど全ての社会的資格が受験を通して得られるように、「テストの正解率」と、「一つの目的に向かって努力する」ではないかと思う。さらに、その目的というのは、「社会的な意味」を持つことが前提になる。つまり、社会的に意味を持つことを目的に設定して、それに向かって努力して、その正確なスキルを高めていくということだ。これが上手にできる人が、この社会の権威的ポジションにつきやすくなる。一度それを手に入れると、たとえその価値観の矛盾を感じたとしても、自分が存在する社会的意味を得ることが自分にとって大事な価値観であるかぎり、そのポジションを手放すことは、なかなかできない。結果として、「矛盾」を口にするくせに、そのシステムのなかにしっかりととどまって矛盾を再生産する人が多くなる。

 昨日の爆笑問題の対談で、そういう権威の自己矛盾が典型的に現れているなあと思ったのは、大学の哲学科の先生(哲学者とは私は思わない)が発した、「無駄の価値を認めよ」というものだ。

 そう言いたい気持ちはわかる。専門学校化していく大学などにおいても、「哲学科」が何のために必要なのだ、とプレッシャーを受けるだろうし、社会的にも「哲学」の肩身の狭さを実感しているのだろう。そうした哲学の置かれた状況と、今日の実利追求社会で「無駄」のように扱われる人々を同じだとみなし、それらを代表して、「無駄の価値を認めろ」という主張になるのかもしれない。

 でも、大学に籍を置いて哲学を教えることで給与をもらっている以上、教師という存在で社会的意味を発揮し、それを拠り所にしていることになる。

 「無駄の価値を認めろ」ということを哲学のプロとして純粋に哲学的課題として追求する(思想と行いを一致させる)ならば、大学を辞めるべきなのだ。それをやるかどうかは自由だが、おそらくそうしないと、この人の哲学が面白いものになる筈がない。そして面白くない哲学を学生が学びながら、社会の現実とも遊離し、それでも哲学を道具として社会的に生きるために大学という聖域にしがみついて残ろうとする人が増えるかもしれない。そして、ますます大学が面白くなくなる。哲学だけでなく、アートなども同じようなところがあるだろう。

 それ以前に、「無駄の価値を認めろ」というのが、無駄さえも目的化してしまう思考の癖の産物であって、目的化された「無駄」は、無駄ではない。

 実利追求社会の世知辛さを先生方は述べていたが、「無駄の価値を認めろ」という発想こそが、世知辛いのだ。

 無駄の価値を主張する前に、「社会的に意味を持つことを目的に設定して、それに向かって努力して、その正確なスキルを高めていく」という現在の「権威」が作り上げた価値観の影響力が強すぎるところに、問題があるのだろう。とはいえ、この価値観にそって戦後の発展があり、この価値観によって社会的秩序ががんじがらめに保たれているので、それを変えることは、とても難しい。

 格差社会など現代社会への適合によって生じる問題が指摘されながらも、社会の安全性を脅かすトラブルが生じた時など、「社会的な意味を持つ正確なスキル」をヒステリックに強く求める。「無駄を認めろ」と言うからには、「安全性が多少損なわれてもいいじゃないか」と思える心情が必要であり、それを口で言うだけでなく、自分の立場もそういうものにする必要があるのだが、格差社会などを論じるインテリ系の人に、そういう覚悟がある人は少ない。だから、彼らの言葉を聞いても、「良識」ばかりで面白くもなんともないし、どこかに胡散臭いところを感じてしまう。

 まともそうなことを言っているのだが胡散臭いものと、世間的にまともという評価を与えられなくても、価値観を揺さぶられる凄いものがある。前者ばかりだと、自分も世界も何も変わらず、気持ちが沈滞してくる。後者こそが、自分と世界を活性化してくれる。しかし現代社会は、前者の社会的ポジションが圧倒的に高い。

 無駄ではない、つまり目的指向性の強いものばかりだと、そこに生じる関係は、あらかじめ想定されたものになりやすい。そうしたことを繰り返すと、あらかじめ想定されたものの外に出て行けなくなってしまうのではないか。

 そういう状態は、出会っているように見えて、実は何事とも出会えていないということだろう。

 面白いアイデアは、あらかじめ想定できる関係のなかではなく、その外との出会いによって生まれることが多い。

 物事は、何一つそれじたいで価値を持つものではなく、何ものかと出会うことで、その出会ったものと相補的に活かし合うものだと私は思っている。

 どんな素晴らしい小説や映画も、その作品自体の価値を客観的に論じても仕方ない。その作品の生命は、その作品と出会う人との間でのみ相補的に共有される。そして、自分が想定する目的を得るために作品を見る人は、その作品と出会えないだろう。

 数多く読まれるということは、読む人が予め想定する目的に添っているということでもあるので、必ずしも、新たな出会いが多いということではないが、出会いの可能性は多くなるだろう。

 しかし、それ以上に大切なことは、出会いの深さなのだと思う。浅い出会いは、簡単に別のものにとってかわられやすく、とりわけ現代の堅牢な権威的価値の下に簡単に従属させられてしまうからだ。

 社会的な目的志向性とは関係ない(無駄)ところで行っていることは、予測不可能な未知との出会いを創出する。その出会いの深さや豊かさが社会的な価値に通じるという保証はないが、社会的な価値や目的に固執しすぎると出会いは縮減し、活性化した面白い人生にもなっていかないし、そうした人間の集まりである社会も活性化せず面白いものにもなっていかないだろうと思う。

「風の旅人」は、この時代の権威的価値観に右へならへをするのではなく、言葉、映像、読者が出会い、相補的に活かし合える場として存在できればと思う。