第1291回 現代を含めて全ての時代に、その時代特有のコスモロジーがある。

堂山3号墳(静岡県磐田市


 静岡県磐田市に堂山古墳群がある。

 ここには5世紀に造られた県内最大規模を誇る全長約110mの前方後円墳と、その周辺に、6基の円墳や方墳が築かれていた。

 磐田市天竜川東岸には他にも御厨堂山古墳群があり、太平洋から天竜川にそって諏訪の地に至る水上ルートが、古代において重要な役割を果たしているのではないかと思われる。

 異なるタイプの古墳が1箇所に集中している歴史背景を知ることは、古代の体制を理解するうえで重要なことだと思う。前方後方墳ヤマト王権という支配者側の古墳で、それ以外の古墳が、従属立場にいた人たちの古墳であるとみなす考えは、物事を對立概念で捉えがちな近代人の思考の癖なのではないか。

 同じ場所に、前方後方墳が世代を超えて引き継がれていたり、前方後方墳より新しい時代に前方後円墳が築かれたりするケースや、円墳と方墳が、同じ場所に築かれているケースの理由も考えなければいけないのだが、支配と被支配という概念だけでなく、数百年という長い歳月のあいだの変遷なのだから、コスモロジーの変化ということだって考えられるだろう。

 堂山古墳群の場合、残念なことに、巨大な前方後円墳の墳丘は、明治25年、学校用地造成のため土取りされてしまった。

 それ以外の古墳も、この写真の堂山3号墳という方墳が、かろうじて形を留めているが、他は、住宅地の中で古墳としての存在がわからなくなっている。

 1500年も残り続けていた古墳が、近代になって、いとも簡単に壊されてしまうことが起きている。

 日本には16万基とも言われる古墳があり、その多くは、今も確認できるのだが、こんな国は、世界でも珍しい。

 前方後円墳の近くに古い前方後方墳がそのまま残っているのだから、”対立”ではない何かしらの”調和”の取り計らいが行われていたからだろう。 

 明治以降の自己都合的で効率優先の精神からすれば、後から古墳を築くならば、前もってそこにあった古墳の土や石材などを利用した方が簡単にできると考える。

 しかし、明治維新以前、1500年以上もの間、そういうことは、あまり行われなかった。

 祟りを恐れたのかもしれないし、先人に対する敬意が保たれていたからかもしれない。

 そもそも、物を作るという行為が精神性と一体化したもので、安易な発想での物作りは魂がこもらないから意味がないという意識が強かったのかもしれない。

 近年の学問は、どんどん処世的になっており、そうした処世的な思考の枠組みを持った学者が、古代のことに対して何かしらの説を立てても、魂をこめた物作りという精神が失われてしまっていると、真相を理解することはできないのではないか。

 そうした”魂”は、科学万能の時代では、エビデンスがないゆえに、無とされる。

 ”魂”という言葉を使うと、現代社会では「宗教的なこと」として警戒されてしまうので、私は、「コスモロジー」という言葉に置き換えている。

 コスモロジーというのは、天体のことに限らず、世界の秩序構造の捉え方のこと。

 自分の生命のことに関しても、たとえば、「死んだらどうなるのか?」という問いは、コスモロジーの違いによって、答えも変わってくる。

 輪廻転生を信じている人は、世界の秩序構造がそうなっていると信じているし、死んだら無になると思っている人は、世界(宇宙)の秩序構造が、そういうものだと思っている。

 天動説よりも地動説が正しいというのは、宇宙の真実を指している考え方ではなく、人間の物の見方(コスモロジー)の変遷の一過程にすぎない。

 私たちは、遠近法で世界を見る癖がついているが、これは人類に普遍的な物の見方ではなく、ヨーロッパルネッサンスにおいて発明された物の見方であり、ヨーロッパ文明が世界を支配するようになって、そうした物の見方が広まって定着しただけのこと。

 遠近法は、どこか一点に軸足を固定して、世界を見る。

 自分と世界全体の関係は、自分と他者の区別によって行われ、自分の側に軸足を置くか、他者の側に軸足を置くかで、天動説が正しいか地動説が正しいかという議論になる。

 地動説のもとになっている考えは、恒星や太陽は停止していて、地球が動いているということだが、最新の宇宙論でも明らかなことは、地球も太陽も恒星も銀河も、全てが規則的な動きをしているということ。つまり宇宙の全ては動いており、その動きの中に秩序性があるということなのだが、どうやら古代人は、すでにそのことを認識していた。

 暦は、地球や天体の動きと密接に関わるので、世界観に通じる。また、現在でも占星術の人気があるように、暦と占いは古代から深く関係しているので、宗教観にも通じる。暦は、まさにコスモロジーを反映している。

 現代人は、宇宙論としては地球の側が動くという「地動説」を信じているにもかかわらず、日々の暮らしは、太陽の側が動くという太陽暦だけを基本としている。

 明治維新前、人々の暮らしは、月の動きを重視する太陰暦が基本だった。

 メキシコやグアテマラに栄えたマヤ文明は、とてつもなく複雑で壮大なカレンダーを残したことで知られているが、古代マヤ人は、太陽の動きを基本とした「ハアブ」と、260日周期の「ツォルキン」を使い、365日と260日が、それぞれの周期で回転していくと少しずつズレて、52年後に再び一致するが、これを一つの周期とした。

 さらに、紀元前3114年を創造の日として、そこから日数(太陽が沈んで1日が終わる)をカウントし続けた長期カレンダーがある。

 260日周期の「ツォルキン」においては諸説があるが、金星と太陽と地球の位置関係で、太陽と地球のあいだの一直線上に金星が来る場合の周期、もしくは金星と地球のあいだの一直線上に太陽が来る場合の周期が583.92日で、そこから金星が太陽の影に入って見えない56日と、太陽の光で見えない8日を引いた520日(明けの明星か宵の明星が見える期間)の半分という説があり、マヤ人は、このツォルキンを、宗教的な儀式・行事や占いなどの時間を決定するために使用していた。

 おそらくマヤ人は、天空に瞬く無数の星の中で、マイナス4等星の非常に明るい金星のサイクルを、自然界のバイオリズムと重ねていたと考えられる。

 文字で刻んだマヤ暦は、かなり古いものが残っており、昨年の4月、グアテマラのサン・バルトロ遺跡で発見された壁画の破片は、現時点で発見された最古のマヤ暦の可能性が高いとされている。

 日本の古代には文字がなかったと考えられているが、マヤ人のように石などに刻み込む文字がなかっただけで、たとえば古代ペルー文明のカラル遺跡(紀元前3000年頃から前2000年)でも発見され、日本の琉球王朝や、現在でも朝廷儀礼の中で用いられている紐文字のようなものが無かったとは言い切れない。

 日本の神社、古墳などの古代の聖域は、冬至のラインの関係性にそって作られているところが非常に多いが、縄文時代ストーンサークルなどにおいても、その傾向が見られるところもある。

 冬至は、太陽の力がもっとも弱まる時でもあるので、復活の日として神聖視されたという考えもあるが、それだけでなく、暦合わせでも起点となる日だった。

 現代人が使用している太陽暦は、日本では明治以降に導入されたが、古代から人々は、生命のリズムと関わりの深い月の満ち欠けを見て時期を判断していた。月の周期は28日であり、季節を司る太陽の周期とずれていく。しかし、冬至の日、どの場所に太陽が来るかを正確に決めておけば、その日を起点として月の満ち欠けをカウントしていけばいい。

 3000年以上前に遡る古代中国の周王朝は、冬至を新年とする暦を採用していたことがわかっているが、おそらく、冬至のラインと聖域をリンクさせている日本の古代も、冬至を一年の始まりと捉えていたのだろう。

 古代、聖域の配置も、コスモロジーに基づいていた。

 古代の探求を行うのは、古代に起きた事実を確認して年号整理を行うためではない。

 古代人のコスモロジーを自分ごとに引き寄せることが大事だと思う。

 なぜなら、人間のコスモロジーが時代によって変遷しているのは、人間が世界と向き合う時に、どこを強く意識しているかが変遷しているからであり、意識の向け方によって世界認識が変わってくるということを示しているからだ。

 人間にかぎらず犬や鳥やモグラやコウモリや蛇や蛙など、どんな生き物にもコスモロジーがあり、それぞれの世界認識が、それぞれの生存戦略と結びついている。

 人間が他の生物と大きく違うところは、非常に短い期間に世界認識の仕方に変遷があることで、 一人の人生においても経験によって物の見方が変わり、物の見方が変われば行動も変わる。

 地球温暖化問題など、現代文明の行き詰まりのことがよく話題になるが、それらの問題に対する議論は、ほとんどが、その場しのぎにすぎない。

 人間のコスモロジーが、これまでと同じであるかぎり、矛盾が尽きることはない。

 一方で環境問題を口にしながら、もう一方で、”消費”の活性化が声高に語られる。

 ”消費”という概念も、当然ながら、現代のコスモロジーの反映だ。

 

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