近代化のコインと印象派

 渋谷の東急文化村で開催されている「スコットランド国立美術館展」を見る。スコットランド絵画とフランス印象派が中心だが、コローの風景画が4,5点とクールベの作品なども展示されて、産業革命後、19世紀風景画の変遷のような趣になっていた。

 スコットランドの画家の風景画それじたいは何の感銘も受けなかったが、19世紀の前半から後半の印象派シスレーとかモネの作品まで、風景を通した世界の掌握の仕方がドラスティックに変化していて、それが明瞭に見えてくるところが面白かった。

 19世紀はじめの風景画は、樹だとか、人間だとか、牛だとか、画面のなかで、絵の描き手が意識的に意味があると定めているモノと、そうでないモノの差が、はっきりとわかってしまう。どれだけ緻密に描いているように見えても、注意を注いで見て描こうとしているものと、そうでないものが画面のなかに同居している。たとえば、水面に浮かぶ影などは、どうでもいいことのように、薄黒く塗られているだけだ。

 それに比べて、シスレーとかモネは、そこにある風景の全てが、描き手にとって意味ある世界だということが、強く伝わっている。すなわち、見えている世界全てが、大いなる意味を秘めているのだと。だから、それ以前の風景画に比べて、一見、荒々しいタッチで描いているように見えても、隅々に意識が行き届いていることがわかる。水に写った影の部分なども、無造作な薄暗い影でもないし、かといって、鏡に映った絵のようなわざとらしいものでもなく、私が風景を見ている時の見え方として、確かにこんな感じだよな、という現実感覚がとてもある。

 それで面白いことに、そのように画面全体が描き手にとって意味あるものとして生かされている絵には、動きが感じられる。呼応と言った方がいいかもしれない。たとえばシスレーの描く<シュレヌのセーヌ河>などでは、画面の中に小さく描かれた人が川に向かって右手を差しのばしているのだが、その手によって、その指先の方向にある小さな舟に注意が向けられ、その舟が、川に写って揺らめく樹木の影を横切りながらこちらに向かって動いてくるような臨場感が出てくる。その後、その舟が流れてきた上流の方に目を向けると、小さな船着き場に人がいて、建物と町みたいなものがあり、その画面のなかの小さく区切られた場所でも、その瞬間、何かが起こっていることが伝わってくる。

 さらに大事なことは、そのように絵の中に生じている様々な局面は、この絵全体のなかでとても小さく描かれており、画面の大半を占めるのは広大な空である。圧倒的に大きな空があって、その空の下に、それぞれの関係性とともにドラマがある。この絵全体が生きているのは、この空が単なる空っぽとしてそこにあるように見えないからなのだ。まず、空が圧倒的な存在感で生きている。だからこそ、空の下の様々な関係性が生きたものになってくる。

 そうしたことを認識したうえで、もう一度、モネの絵を見たり、他のスコットランド絵画を見ると、印象派の画家は、それまでの風景画と違って、空とか影とか、今日風に言うならば物として意味のないモノと大事な関係性を築いている。

 私は、美術評論の類はほとんど読まないからよく知らないが、美術界では、印象派を分析する場合に、そうしたことは既に周知の事実なのかもしれない。

 しかし、教科書的に印象派といえば、「光の画家」ということになって、その言葉じたいが消費されすぎて記号化してしまって、画面が明るいということだけを意味するようになってしまっていないだろうか。

 「絵の具を混ぜると色が濁って暗くなるので、印象派の画家達は、一つ一つの色をキャンバスにそのまま置いて色を混ぜ合わさない方法を編み出した」という技術解説を美術評論家がすることは多い。

 そうした画家のテクニックは、何をどう表現しようとするかの必然性のなかからやむなく生じてくるものであって、その部分を強調しても、画家の真意は伝わらない。

 印象派の画家達は、世界を構成する全てのモノが呼応関係で成り立っていることを掌握していた。その呼応関係を、画面の中に実現しようとした。それを実現するために、絵の具の色同士の呼応関係を活用した。

 色は混ぜ合わせれば混ぜ合わせるほど、その混ぜ合わせてできた色の中に閉じていく。他の色のことはお構いなしになって、自分だけの色のなかで自己完結しようとしてしまう。

 そうしてできた色で世界を表現していくことに違和感を覚える人と、そうでない人がいる。

 自分にとって意味あるモノとそうでないモノがバラバラに集まったものとして世界を捉える人は、意味あるモノと、そうでないモノを選り分けて世界を描く。その人は、自分にとって意味のない部分は、とことん濁りきった薄暗い色で表現する。それと相対的に、自分にとって意味ある部分は、濁りの目立たない色で描く。すると全体的に淀んだ雰囲気になって画面が生きてこない。だから、技術的に細部の描写力を高め、その部分に人の注意を向ける。その細部への偏執的なこだわりと、専門領域のなかで高めた技術力によって細部を周到に表現し、素人を圧倒する。「人間はここまでのことができるんだあ」と。

 それは、産業革命を推進した精神構造と実は同じベクトルのなかにあるものなのだ。

 産業革命の機械文明に反対して自然を描く。しかしそれは、機械という人工物と自然物という形となって現れるモノの対比でしかなく、そのどちらが自分にとって意味あり価値があるかと分別して世界を自分好みのモノだけで仕立て上げようとする思考特性において同じであり、近代化を通して投げられたコインの裏表の関係でしかない。

 そうしたことは、今日の様々な活動にも通じている。意識の分断こそ、世界の分断であり、いくら近代化反対などと叫んでも、そのことじたいが近代化の思考特性であり、結果として世界の分断が広がることにしかならないのだ。

 印象派の画家達は、産業革命を通して、機械などの人工が大事か自然物が大事かと問うたわけではない。彼らは、産業革命にかぎらず、近代化を通じて投げられたコインによって、世界が裏か表かと意識的に分別され分断化されていくことに対して、問題意識を持っていたのではないか。

 印象派の画家達のように世界を構成する全てのモノが何かしらの呼応関係にあると感じる人は、画面のなかに意味のない部分を置くことは出来ない。影であれ、空であれ、場合によっては死体であれ、濁りのない生きたものにしたい。専門家の技術による細部の描写力で、一点に関心を向けさせるのではなく、絵全体の文脈というべきもので、見る人と対話を行いたい。

 そうして生み出された方法が印象派の絵ではないかと、このたびの展覧会で思ったのだけど、上に述べたことは、絵の世界だけでなく、文章や写真の世界にも通じることなんだろうと思う。