第971回  競争から共創へ、利己から利他へ①  宗教の本質

 神社が政治的存在感を増している。 http://toyokeizai.net/articles/-/139081
 神社で憲法改正を求める幟やポスターが掲げられ、署名が集められている。神社は、祈りの場なのに政治活動の場になっている。
 そうした神社の関係者は、「個人だけでなく国家の安泰を守るための精神的な柱になりたい、その宗教的権威を取り戻したい」という思いがあるのかもしれないけれど、宗教者として大事なことを見失っている。
 「日本人から道徳心や精神性がなくなっているのは宗教心が弱いからだ、それを取り戻さなければいけない」と考え、政治と宗教を結びつけようとしている人もいるが、それもまた、大事なことを見失っている。
「国家」という言葉を使うと、何か立派なことのように聞こえるが、そうした言葉を大義名分のようにふりかざずのは、小心な人間にすぎない。小心な人間が、自分を立派に見せるために、言葉の上で立派そうなことを言っているにすぎない。国家権威とか宗教権威など権威という虎の威を借る狐にすぎない。
 そして、その狐じたいが、何か立派な存在のように奉られている状況も、現代社会が、大切なことを見失っているからだ。
 お稲荷さんの狐も、本来は眷属であり使者であるが、それを神様のように崇める人が、この世界には多くいる。それは一種の偶像崇拝なのだが、人間は、偶像崇拝によって堕落していくことを、宗教の創始者達は理解し、禁じていた。
 偶像は、心を偶像へと心を向けさせることで、本来、向き合わなければいけないものから目を逸らさせ、偽りの、つかの間の、心の安泰へと導く。
 宗教にかぎらず、現実世界には、偶像が溢れかえっており、権威付けというのは、すべて偶像化による心理操作である。
 だから、露骨な偶像化が行われている時というのは、向き合わなければならない大切なことから人々の目を逸らさせようとする人間の策略だと考えた方が間違いない。
 向き合わなければいけない大切なことは何なのか。それは、虎の威を借る狐が、大きな声で叫ぶ国家の安泰なのか。
 その国家とは何なのか。「一部の政治家や官僚のためだけの国家」という体制批判でよく使われる古い言い方は、もうやめとこう。
 国家という言葉が、国民一般を含むものだとしても、国家の安泰が叫ばれる時の「国家」は、利己への執着の集合体でしかない。
 私たちが今、本当に向き合わなければいけない大切なこと、考えなければいけない大切なことは、利己への執着のためだけに祈る心が、今の社会状況に相応しいかどうかなのだ。そういう人の集合体が国家ならば、その国家の中では、利己への執着のための競争が永遠に続き、その勝者が崇められ、敗者の上に君臨するだけのこと。
 利己主義を自由化と言い換え、その原理に基づく競争が国家を繁栄させるのだと主張する人々は、その貪婪な競争の勝利者であることが多い。そういう価値観が存続することが、自らの地位の安泰を守ることになる。彼らの叫ぶ国家安泰というのは、そうした自分に都合の良い秩序や価値観の安泰ということにすぎない。
 利己への執着の強さは、人を人とも思わないことを考えさせ、実行させる。
 時代を超えて存続してきた宗教は、この利己的な執着を断つことを、人間の最も崇高な精神的態度とみなしている。
 それは、その執着が人間に悲劇をもたらすことを歴史から教訓として学んでおり、まともな宗教は、そのことを真摯に語り継いでいる。
 宗教的マインドの本質は、競争ではなく共創であり、利己ではなく利他であるはずだ。 
 もしも、競争や利己のために宗教を持ち出すものがあれば、すべて紛い物であると心得ていた方がいい。


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