第970回 ドナルド・トランプの勝利と、資本主義の曲がり角⑦


 ⑥から続く

 ドナルド・トランプが大統領になったアメリカは、金融の資金調達力に情報技術と天然資源を結びつけて、新たな製造業の時代を切りひらき、新たな保護主義政策をとっていくのかもしれない。
 そして、アメリカに限らず、イギリス連邦EUも、グローバルな自由主義政策から転換し、自分たちの経済発展に有用な国・地域をある程度限定して、「ブロック経済」を構築していく可能性だってある。 
 1929年のウォール街の大暴落を起点とする世界恐慌以後の1930年代、イギリスやフランスなど植民地を持つ国々は、植民地をブロックするという保護政策をとった。それにうまく対応できなかった日本は、次第に孤立し、戦争へと突き進むことになった。
 その時の過ちを繰り返さないために、今から準備しておく必要がある。
 当時と状況が異なるのは、新興国と呼ばれる国が世界中に広がっていることだ。
 これまで日本が、ODA(政府開発援助)で援助してきた国や地域は、185カ国・地域あり、これらの国々の中には、日本がその国にとっての最大の援助国になっている国が多数ある。そして現在、日本から援助を受けていた国々は、新興国として著しい発展の途上にある。それらの国々と、今後、日本がどういう結びつきを作り上げていくのか。まさに日本の利他と共創の精神が、とても重要なカードになっていく可能性がある。
 戦後の日本の発展は、アメリカに軍事的に守られ、アメリカが日本の製品をたくさん買ってくれたからだという指摘を否定するつもりはない。
 しかし、それは、アメリカにもメリットがあったからそうなったわけで、アメリカが、国家の生存戦略を転換しつつある今、これまでのようにアメリカとの関係に依存しすぎていると、アメリカの恫喝に怯えながら、上手に利用されるだけとなる可能性が高い。
 日本は、この70年間、アメリカやイギリスと異なり、どの国も戦争行為で侵しておらず、経済支援だけを続け、それらの国々の発展に貢献してきた。
 そして今、次なる時代を見通し、世界全体の人々の暮らしがより健やかになっていく投資活動を行い、そうした投資分野の成長とともに自らも豊かになっていくというビジョンを描き、実践できるかどうか。
 簡単ではないと言われるかもしれないが、けっきょく、どういう暮らし方が望ましく、幸福なのか、という原理原則が、もっとも大事になる。
 お金がお金を生んでいくこと、ただそれだけに喜びを感じられる人は、不幸だろう。
 もしも資金に少しでも余裕があるのならば、そのお金が、健やかな未来社会につながり、かつ、その分野の成長とともに自らの生活に少しでも潤いがもたらされるのであれば、心の状態としては、とても満たされたものになるのではないかと思う。
 現在、金融分野において、革命的な動きが進行しつつある。
 フィンティック、クラウドファンディングソーシャルレンディングといった方法で、金融機関を通さず、個人から直接、お金を必要とする企業/団体や個人にお金が投資できるようになっている。
 事業の将来性が高かったり、地方にとって必要な産業なのに、銀行が、担保を取れなければ資金の貸し出しを行わないために成長発展が阻害されたり計画が頓挫するケースが多くあるが、そうした銀行のスタンスを、金融庁は「日本型金融排除」と位置づけ、改めるよう指導していくらしいが、金融庁の指導・管理のもと右往左往する日本の銀行の存在意義は、現在進行中の金融革命によって、今後ますます失われていくだろう。
 日本の眠っているお金を活性化させる力は、もはや既存の銀行システムにはない。
 終身雇用、年功序列の時代は終わり、日本人の働き方が大きく変化している。そして、数多くの若き起業家が、様々な分野で育ちつつある。もちろん、単なる金儲けが目当ての人もいるし、日本社会をより健やかな方向に導きたいという哲学とビジョンを持っている人もいる。
 これまで、こうしたベンチャー企業への投資は、ベンチャーキャピタル(VC)やエンジェル投資家など、ごく限られた投資家にしか門戸が開かれていなかった。
 ベンチャー投資には高度なノウハウや知識、そして財力が必要だったからだ。
 こうした専門的な投資の機会を、フィンテックを使って一般に開放する動きが出てきている。これまでベンチャーキャピタルに頼らざるを得なかった起業家は、自らのビジョンや事業内容に共感、期待してくれる一般の多くの人から資金を集めることも可能になってきたのだ。
 一人一人は少額でも、人数が集まれば、それなりの規模になる。東北大震災の後、石巻牡鹿半島の漁村が、全国から一口1万円の投資金を集めて話題になったが、あの時よりもシスマティックな方法で、必要な資金を集めることができる。
 特定の金融機関や投資家が、資金の流れを独占し、富めるものだけがさらに富めるという時代は、そろそろ終わりを迎えつつあるのだ。
 お金の回り方が変わってくれば、世界の様相も変わってくる。
 もはや政府が税金を無駄に使って社会を束の間だけ活性化する時代ではなく、また特定の金融業者や投資家が、情報とノウハウとチャンスを独占してマネーゲームに興じる時代でもなく、広く一般の人たちが自分の意思と見識をもって、身体やお金を通して参加することで、福祉や就労や日々の暮らしの健やかさが持続する社会の構築が、10%でも可能性があるのならば、その方向に希望を持ちたい。
 新しい仕組みは、最初は色々なトラブルも発生するかもしれない。自分のお金をそんなわけのわからないものに投じることなどできないと思う人は、現段階では多いかもしれない。
 しかし、15年前には、インターネットで、クレジットカードを使って物を購入することに躊躇する人は多かった。オークションサイトなんか信用できないと言う人は多かった。
 いつの間にか、インターネットで物を買うだけでなく、オークションに出品する人も増えたし、最近では、メルカリには1日50万もの商品が商品が出品され、不用品を売って稼いでいる人がけっこういるらしい。子供が図画工作などで急に必要になったトイレットペーパーの芯を、メルカリに出品している人がいて、それをタイミングよく購入する人もいるそうだ。
 15年後には、お小遣いを自分好みのベンチャー企業に投資し、その成長を見守ることが当たり前になっているかもしれない。こういう投資は、決してリターンだけが目的なのではない。東北大震災の後の牡鹿半島の漁村に一万円を投資した人たちは、漁の復興後、牡蠣の現物を受け取ることが約束されていたが、その前に、家族で漁を見物に行った人も多かった。投資した1万円以上の交通費や宿泊費をかけて、わざわざ現地を訪れているのだ。
 人は、自分の利益だけを目的に生きているわけではない。
 他人との競争に明け暮れ、自己利益の過剰な追求によって心を貧しくしていくのではなく、 他人と共創し、他人に利益となるように図ること(利他)が、心を豊かにする。
 西洋の近代合理主義と個人主義を見よう見まねで追い続けた結果、物質的な豊かさを手にいれることはできたが、肝心の幸福感は遠ざかってしまった。 
 今こそ、競争から共創へ、利己から利他への転換が必要な時なのだろう。
 先進国と呼ばれた国々は、新興国の追い上げによって、これまでの方法で優位を保てなくなってきている。その状況下で、自己の利益のみを守ろうとすると、もはや排他的なブロック経済しかなく、ブロックとブロックの競争が激化するばかりだろう。
 日本も生き残りのために、そうした戦略を重視すべきだと主張する有識者も多くいる。
 どう考えるかは人それぞれだが、老いることや死ぬことに抵抗して、いつまでもこの世に留まりたい人なら話は別だが、どうせ時期が来れば誰でも老いて死ぬ宿命を受け入れるのであれば、せめて生きている間は、自分に損とか不利ということばかりに心を砕くのでなく、人の道としてどうなのかということを考えた方が、この世を去る時に後悔がないだろう。
 とくに、高齢者に、そういうマインドを取り戻して欲しい。
 自分の安心快適のために、武器輸出や原発輸出を見て見ぬふりをする利己的な老人が増えると、若者は、人の道をどうやって学んでいけばいいのか。
 最近の若者は年長者への敬意がないなどと言う前に、自分が若者に尊敬される人間になっているかどうか省みることの方が先だ。
 年長者が尊敬される存在になってはじめて、若者は、人生の先輩から、人としてあるべき姿、人生をいかに生きていくかを学ぶことができる。
 綺麗事だと批判されるかもしれないが、一人ひとりが、人としてあるべき姿や、人生をいかに生きていくかを真剣に考えるようになっていくと、日本のあり方も、おのずから決まってくる。
 日本のように小さな島国で資源を持たない国は、ブロック経済という敵対的な構造の中で卑屈になったり虚勢を張って生きるのではなく、自在なポジションと、信頼関係こそが強みとなるような方法で、世界の新たなる形に貢献していくことが、生き方として理想だ。
 そういうことを夢や目標にできる日本人が増えていけば、今のような刹那主義の虚しい消費社会を脱して、努力の方向性も、より本質的なものへと変わるだろうし、生きていく甲斐が十分に感じられるような社会になっていくのだろうと思う。
 15年前には考えられなかったような、非常に便利な道具がたくさんあるし、これからも増えていく。それらの道具は、国境を超えた人と人との関係や、一人ひとりの働き方や生き方を変えるポテンシャルがある。にもかかわらず、それらを無聊の慰めにだけ使うのは、あまりにももったいない。
 道具は使い方次第。使い方で、人類の未来はまったく違ったものになる。
 道具をどう使うか考えるために、現在そしてこれからどうなっていくかという物語が必要だ。
 私が7回にわたって書いてきたのは、正しい分析のためではなく、あくまでも一つの可能性としての物語だ。
 自分の物語を語らず、人の物語の一部にケチをつける人はけっこういるが、そういう行為は、どこにもつながらない。
 人が組み立てた物語に意義を唱える暇があったら、自分なりの物語を組み立てて、それを語ればいい。 
 一つの命題に対して正しいか否かと議論するのは、20世紀までのやり方だ。なぜなら、「少品種大量」の20世紀は、議論によって導かれた一つのコンセンサスを、広く大きく展開する時代だったからだ。
 21世紀は、少量多品種の時代であり、一つのコンセンサスよりも、多くの物語があった方がいい。 
 いくつもある物語の中で、どの物語に共感できるか、納得できるか、共感でき納得できる物語があれば、それをもとに、自分の物語を磨いていけばいいだけのこと。
 これからの時代を生きていくために、物語の中に織り込んでいかなければならないことは、限りなく存在する。
 私がここに書き連ねてきたことは、途中経過でしかない。


(完)

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