第1164回 現場を訪れることで立ち上がってくる新たな問い

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三角形の北の頂点が、京丹後市網野町の網野神社、西の頂点が兵庫県宍粟市の伊和神社、東の頂点が、亀岡市の魔気神社である。それぞれのあいだは、76kmで正三角形である。魔気神社と、伊和神社は、珍しく本殿が北向きの神社であり、京丹後の網野神社は、浦島太郎伝説の地で、近くに、日本海側で最大の網野銚子山古墳がある。そして、網野神社と魔気神社を結ぶラインを、同じ距離だけ、東南に行くと、飛鳥となる。

 

 その場所を訪れることで初めて気付くこと、気になることがあるので、やはり、実際にその場所に足を運ぶ必要がある。

 たとえば、神社にしても、現地まで足を運んで鳥居をくぐる時、本殿が北を向いていることに気付く時がある。

 神社は、一般的には、南や東を向いており、北を向くというのは何かしら特別な意味があるので、北に何があるのだろうと気になる。

 そして、別のところを訪れている時、そこでも、めったにない北向きの神社があったりすると、その二つの関係が気になってくる。

 たとえば、京都府亀岡に魔気神社という名前も怪しい神社がある。この神社は名神大社なので、平安時代においても、朝廷から特に重要だと定められた神社だ。

 しかし、祭神は、大御饌津彦命 (おおみけつひこのみこと)という珍しい神様で、これは、Sacred worldVol.2でも掘り下げた大宜都比売神オオゲツヒメ)と同じという説もある。

 この神様は、いわゆる、アマテラスなど天孫系の神様ではない。美味しい料理を提供しているのだが、なぜこんなに美味しいのかとスサノオが見に行くと、食べ物をお尻の穴から出したり、口からゲロのように吐き出したりして作っており、それを見たスサノオが憤慨して、バラバラに切り殺してしまう虐殺されてしまう。 

 なんとも妙なエピソードだが、おそらくこれは、二つの勢力のあいだの価値観や文化の違いを象徴しているのではないか思われる。

 そうした不可思議な神様を祀る魔気神社は、名神大社であるとともに、篠山街道沿いに広がる周辺集落共通の氏神として近世以来「摩気郷十一ヶ村の総鎮守」と称されていて、歴史的に民衆からも大切にされてきた。

 国家の神社ではないけれど、人々に大切にされてきた神社であり、この神社が、北向きなのだ。

 そして、兵庫県宍粟市に、伊和神社がある。この神社は播磨一宮で、播磨三大社ともされる。

 この神社も北向きである。

 この神社の祭神は伊和大神で、大国主命と同じとされ、播磨国風土記で、国譲りの神話の中に登場する。

 この神社の境内は、とても不思議で、鳥居は、東を向いていて、鳥居をくぐり抜けて参道を行き、左側に曲がると本殿があり、その本殿が北を向いている。そして、右側に曲がると、磐座群がある。しかし、一般的に、境内に磐座がある神社は、神社の案内図にそのことが示されているのが普通だけれど、伊和神社にはそれがない。なので、何も知らない人は、境内の案内図にそって、鳥居から参道、そして左に曲がって本殿でお参りをして磐座群には立ち寄らずに帰っていく。

 伊和神社の本殿が向いている北には磐座群がある。さらにその北には、美しい三角形の宮山がそびえ、その頂上付近に、巨大な岩塊が多く存在している。ここが、伊和神社の元宮であるともされる。

 

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伊和神社の北、ピラミッド型の宮山の山頂付近の巨石群

 

 この宮山を登ると、途中、赤いベンガラの地層があったりして、古代、鉄の山であっただろうことが偲ばれる。兵庫県宍粟市から佐用町にかけては、古代から中世、鉄の産地として重要だった。

 南北朝の時代、鎌倉幕府の打倒と北朝の勝利の立役者である赤松氏は、鉄資源の豊富なこの地を治めていたので、圧倒的な戦闘力を備えていたのだと思われる。

 そして、さらに奇妙なことに、珍しい北向きの本殿を持つ宍粟の伊和神社と、亀岡の魔気神社は、北緯35.09度の東西線上に鎮座しているのだ。

 この二つの神社の奇妙なバックグラウンドを考えると、これは偶然とは思えないので、この二つの神社が向いている北には、いったい何があるんだろうと、さらに気になる。そうして次の探求が始まる。

 実は、この二つの場所のあいだは、76kmほどで、それぞれの地点を結んで正三角形を作る北の場所が京丹後市網野町であり、ここに墳丘201mという日本海最大の網野銚子山古墳がある。

 古墳が築かれている丘陵上では林遺跡・三宅遺跡・大将軍遺跡という弥生時代古墳時代の遺跡がある。

 そして、この近くに網野神社が鎮座している。この神社は、浦島太郎ゆかりの神社だ。

 752年(天平4年)の正倉院文書に「竹野郡網野郷」を記されるのが文献で確認できる古い神社で、当然ながら式内社である。さらに、ここは、白鳥伝説の場所でもある。

 さらにこの神社において、かつての本殿であった境内社の蠶織神社(こおりじんじゃ)は織物と養蚕の聖域でもあり、亀岡の魔気神社と同じく、大宜津比売神を祀っている。そして、白鳥伝説は、鉄との関係がある場所が多い。

 実に怪しい。この三角形は、いったい何なのだということになる。

 いわゆる国譲りを迫った天孫降臨の神々ではなく、それ以前の、天孫とは価値観や文化的背景の異なる人々が、弥生時代からこの三角形の頂点にあたる場所に拠点を持っていた。そして、ヤマト王権を象徴する巨大な古墳が、その場所を監視するように築かれているのだ。

 さらに、そこに浦島太郎の伝承が関係してくる。

 これは一体何を意味しているのか?

  浦島太郎の物語の原型は、亀を助ける話ではなく、男が一人で船を出して漁をしていると、海神(わたつみ)の娘と出会い、語り合い、そして結婚し、常世にある海神の宮で暮らすという設定だ。

 つまり、異なる文化背景を持つ集団の娘との婚姻である。

 そして、自分の郷里に戻ってきたら、まったく別世界になっていた。

 これは、自分自身の価値観が大きく変わったとも理解できる。私も、20歳の時、2年間の海外放浪を終えて日本に帰ってきた時、自分がまったく異星人のように感じられるという経験をしたことがあり、もう元のようには生きられなかった。

 正しい理由はわからないが、浦島太郎の伝承の地と、北向きの本殿を持つ、亀岡の魔気神社と、西播磨の伊和神社という、いずれも古代から大社が、正三角形で結ばれている。

 さらに不可思議なのは、丹後と網山と、魔気神社を結ぶラインを、同じ距離だけ逆に伸ばすと、飛鳥である。

 これは、偶然なのか計画的なのか、それとも天命のようなものなのかはわからない。

 ただ、亀岡の魔気神社をはさんで、丹波王国という旧世界と、飛鳥を中心にした新世界が、対極に位置していることは、地理上で、間違いないことだ。

 このように、一番最初に気になった、「北向きの本殿」の謎を追っかけていると、新たな大きな問いが立ち上がってくる。

 いずれにしろ、現場に足を運ぶことで、考えることの奥行きと広がりが、大きくなっていく。そして、それらを追いかけていると、その問いは果てしなく連なり、目眩がしそうなほど、大きな時空が立ち現れてくる。

 西播磨の伊和神社も、亀岡の魔気神社も、飛鳥も訪れて取材をしているが、京丹後の網野町は、京丹後の他の地域を取材した時に、通り過ぎただけで、じっくりと取材していない。

 なので、次は、ここに行かなければいけないと思う。そして、行くと必ず、次の問いが立ち上がってくるだろうと思う。

 

 

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