第1447回 巫の力と、天皇制。

室生龍穴神社(奈良県宇陀市)の奥宮の「吉祥龍穴」。ここが「善女龍王」の聖域。 「善女龍王」は、仏教における龍を統率する女神で、空海が京都の神仙苑(しんせんえん)で雨乞いを行った時に現れたとされる龍王でもある。伝説によれば、善女龍王は、奈良市の猿沢の池にいたが、天皇の食事を奉仕していた女官が、用無しにされたことで悲嘆にくれて猿沢の池に身投げをしたのをきっかけに、身を移し、最終的にここに至ったとされる。

(さらに昨日の続き)

 古代、巫の力は、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護する存在であった。

 そして、古代の歌人には、この巫の力が宿っていた。

 柿本人麿の出生地は、いくつかの候補地があるが、有力な場所が、終焉地とされる島根県の石見である。そして、益田市の戸田柿本神社が、人麻呂の生誕地に建てられているとされ、遺髪塚など遺跡がある。

 この地の伝承では、語部の綾部氏を伴って大和から石見に下った柿本氏(和邇氏の後裔)と、綾部氏の娘との間に生まれた子が人麻呂である。

  綾部氏は代々巫女が世襲したといわれ、 人麿は、この巫女の母から、古代の様々な叡智を吸収した。

 数日前のエントリーにも書いたが、8世紀に律令制が始まる前、「歌」というのは、人間社会の事情を超えたところにアクセスするための魂の運動だった。

 柿本人麿までは、人の死に際して歌を詠む場合、本気で魂を招魂しようとし、自然を歌う場合も、本気で、自然の魂と一つになっていた。しかし、柿本人麿以降、しだいに他人事になっていって、(個人的に)情景を愛でるだけとか、自分個人の感傷を歌う程度のもの(今日の「私ごと」の表現)となって作者の魂の質が低下し、他者(外界)を自分の魂に引きつける力が弱くなっていった。

 石牟礼道子さんの言葉、「人間だけでなく、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる」ということを、リアルに感じていた時代と、その感覚が薄れていった時代の分岐点が、奈良時代にあり、9世紀になると、和歌は消えて、ほとんど漢詩ばかりになった。

 しかし、10世紀、律令制という中央集権的体制が崩れつつある時、再び、和歌の力が復活し、11世紀初頭の「源氏物語」へとつながる。この時期を起点として、それ以降の中世において、古代の巫の力は、河原者や琵琶法師など境界の人々によって、受け継がれていく。

 日本には古代から葬送などの仕事に従事する人などは、「穢れの人々」とみなされ、徳川幕府が、士農工商身分制度を確立した時、この枠組みに入りきれなかった人々は、差別の対象となった。

 しかし、古代において、たとえば京都の比叡山麓の八瀬童子は、天皇の死に際して棺を運ぶ人たちであったが、ここは外交で活躍した小野妹子小野毛人の痕跡が残る小野郷であり、小野というのは、柿本と同じく和邇氏の後裔である。

 平安時代小野篁が、昼は天皇に仕え、夜は地獄の閻魔大王に仕えたという伝承があるように、「穢れの人」は境界の人である。境界の人々が担う穢れは、聖性と表裏一体であって、そこに祭祀や外交を司る者たちも位置付けられていたのだ。

 その境界の人たちは、供御人(くごにん=天皇の飲食物を貢納していた人々)、召人(めしゅうど= 宮中で行われる歌会始めの際、題にちなんだ和歌を詠むように特に選ばれた人。)、そして神人(じにん=社家に仕えて神事、社務の補助や雑役に当たった)という職能人でもあった。 

 これらの職能民は、非人などとよばれたが、神社仏閣や、朝廷とも深く結びついていたし、各地を自由に移動することができた。

 そもそも、律令制の時代は班田収受に基づく人頭税であり、人々の移動は禁止されていたが、その崩壊とともに、人々の移動は激しくなった。その際、境界の人たちは、各地を結ぶネットワークの要になっていき、そんな彼らが、古代の海人族のように、各地の伝承を物語化していき、中世の語り部的な集団となっていった。

 能や歌舞伎や浄瑠璃などをはじめ、中世日本文化を特徴づけるものは、ここから生まれてきた。

 こうした境界の人たちが神聖さを帯びていたのは、日本の天皇が、政治的権力者というより祭祀の要に位置しており、その祭祀が、古代の巫女的な性質を帯びていたからだ。その天皇の血肉に関わっていたのが、境界の人たちだった。

 戦後の日本社会は政教分離を原則としているので、天皇による宮中祭祀は、天皇の私的行為に位置付けられているが、その祭祀は、国家の安泰と国民の幸せを祈って古くから続けられているものである。

 その祭祀の本質は、古代の巫女が、自分の存在を打ち捨てる覚悟で神に仕えることで、その身に神を憑依し、神そのものになって、人々に豊穣をもたらし、人々を災難から守護するために祈ることと変わっていない。

 しかし、こうした天皇の祭祀は、「人間だけでなく、草や木にも魂があって、いつでも先祖帰りをすることができる」という感覚が薄れて、万物の尺度を人間に置き、力を持って世の中を支配する競争の時代になると、政治的道具に利用されてしまう恐れがある。

 日本の近代化は、欧米の列強に対抗するためにどういう国家の枠組みを作るかということが課題であった。その時、日本が選択したのは、一番真似のしやすいイギリスの立憲君主国制度であり、天皇の位置付けをビクトリア女王のようにすることだった。

 しかし、イギリスの王室というのは、日本の朝廷に比べて、かなり世俗に近くて開かれている。だから、イギリスでは王室のスキャンダルがありえるが、日本の場合、皇室のスキャンダルの取り扱いは、イギリスに比べて、はるかに難しい。日本の天皇は、世俗を超えた存在なのだ。

 それゆえ天皇を権力装置の中心にもってくることで、神国日本のようになってしまった。だから、戦後、苦肉の策として象徴天皇というポジションを作り出した。

 天皇は、世俗を超えた存在ゆえに日本人の心の要にあるから、戦犯扱いにして天皇制を廃止するわけにはいかない。

 日本が外からの力や影響で急速に変化したのは、近代以降だけでなく、奈良時代後半から平安時代の中頃まで顕著に見られたことだった。

 この二つの時代に共通していることは、外からの影響で日本社会が急激に変化していった時代であること。1300年前は、唐による羈縻(きび)政策(戦いで打ち破った地域を力づくで搾取しながら支配するのではなく、その国の制度を唐と同じものにして、懐柔していく統治スタイルのこと。)によって、そして近代は、盲目的と言えるほどの欧米化政策によって。

 近代の日本社会の変化によって生じた精神的な特徴は、シンプルに言うならば、「理性分別によって自分の損得を優先的に考える」ということに尽きる。

 現在、世の中を覆う価値観は、これが当たり前になっているが、13年前の東北大震災において世界中の人々が驚いたように、日本人は、大震災などの時に、潜在的に備えている美意識が表面化することがある。

 多くの人が、「理性分別によって自分の損得を優先的にする」という側面を抑制し、なかには自己犠牲的な行動をとる人が増えるのだ。

 20世紀の巫と言える石牟礼道子さんの言葉の「のさり」と、「悶えて加勢する」という言葉のように、他人の苦しみも、大いなるもののはからいを引き受けるという境地で、自分ごととして引き受ける力が強まるのである。

 古代から脈々と受け継がれている巫の力は、天皇制が維持されているのと同じく、失われていない。

 日本に希望が残っているとしたら、そのことに尽きるのかもしれない。

 

 ここに書いたことを、3月31日と31日に京都で行うワークショップで、掘り下げます。

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