飛騨地方には、縄文遺跡が多く残り、縄文時代の祭祀道具と考えられる石棒に関しては日本で最も数多く見つかっているが、飛騨人の顔は沖縄や東北の人たちのようにDNAの影響を色濃く受けているようには見られず、そのため、飛騨人は縄文系などという偏ったDNAを引き継いでいないと考えられていた。
しかし、10年ほど前、飛騨高山市在住の理論物理学者の住斉さんが、飛騨人のルーツを解明するためにDNA解析を行ったところ、飛騨の人は、母方DNAでは「縄文系62%、弥生系38%」に対し、父方では「縄文系41%、弥生系59%」と対照的な結果になった。
この結果に対して、住さんは、後からやってきた弥生系男性と、複数の縄文系女性との間に子孫を残したからではないかと仮説を立てた。
弥生系DNAに関して、紀元前5世紀頃に稲作文化を日本に伝えた大陸系の人たちと、その後、大陸で動乱があるたびに大挙して日本にやってきた人たちと識別できるのかどうかわからないが、日本列島に後からやってきた男性が先住の女性と結ばれたというストーリーは、神話上のニニギとコノハナサクヤヒメの物語と重なる。飛騨地域のDNA解析の結果は、飛騨と同じく縄文文化が栄えた他地域の人々にも通じる可能性がある。
そして、コノハナサクヤヒメに象徴されるように、「マレビト」を迎える先住の巫女的な立場の女性は、水辺で織物をしながら彼らを迎え入れた。「マレビト」は、海や川からやってくるからだ。
飛騨は、山で囲まれた土地だが、他地域との交流が水上交通によって行われていたことを考古学的に裏付けることができる幾つかのサンプルがある。
その一つが、飛騨の塩屋石で作られた大量の石棒で、この男根のような形の縄文時代の祭祀道具が、飛騨と神通川でつながっている富山県の魚津市の天神山遺跡から出土している。
また、飛騨南部の湯ヶ峰に産出する下呂石は、黒曜石に似た性質で、石器時代から鋭利な石器として使用されているが、これが、縄文時代には、大量に富山平野に持ち込まれていた。同じ時期に、八ヶ岳の黒曜石も富山平野に入っているが、その量を上回っている。
飛騨地方と諏訪地方の縄文文化には共通点が多く見られるが、飛騨と諏訪とのあいだには北アルプスが聳え、移動することは簡単ではない。しかし、飛騨から神通川を下って富山平野まで行けば、ヒスイの産地として有名な糸魚川までは近く、糸魚川からは姫川を遡れば、海人の安曇氏の拠点として知られる安曇野から松本盆地、諏訪地方へと比較的簡単に移動ができる。
さらに飛騨から南に向かって飛騨川が流れ、木曽川に合流する。木曽川は伊勢湾に注ぐが、上流方向に遡れば、かつての東山道と重なり、松本盆地に到る。
また、伊勢湾から矢作川を遡れば、古代の塩の道を通り、長野県の伊那盆地から松本盆地や諏訪に到る。
糸魚川のヒスイは、縄文時代には北海道から沖縄まで流通していたが、縄文人は、日々、近辺で狩猟採集だけを行っていただけではなく、水上ネットワークを通じて各地とネットワークを形成していた。
後からやってきた弥生人が稲作を営みの中心に置いていたとするならば、彼らは、田の管理のため土地を離れて生活できない。なので、弥生時代以降も盛んに行われていた日本各地の交流を担っていたのは、縄文時代から水上ネットワークを行っていた人たちだろう。
大陸からやってきた人たちは、婚姻を通じて、それらの勢力と一体化していった。飛騨人のDNAは、そのことを示しており、飛騨に限らず、日本という国のことを考えるうえで、このことは重要なこととなる。
日本は、後からやってきた人たちによって征服されたり、管理下に置かれて文化的影響を一方的に受けるということになっておらず、縄文時代からのコスモロジーの上に、後から入ってきたコスモロジーが重なっている。
飛騨の国の一宮は、水無神社だが、この神社の主祭神は御歳神(大年神)で、本居宣長や柳田国男は、これを農作を守護する神としているが、大年神は、毎年正月に各家にやってきて家を守護してくれる来訪神でもある。
つまり、水無神社の御歳神は、先住の縄文人の暮らしの中に入ってきて恩恵を与えた弥生人の文化を象徴している神ということだ。
一般的に、神社は、東や南をむいていることが多いが、水無神社は北方向をむいており、この地の来訪神が、北から入ってきた可能性を示している。
富山と飛騨を結ぶ神通川は、飛騨に入ると宮川という名になるのだが、神に通じる川が、飛騨に入って「宮」の川になるというのは、飛騨こそが「神の宮」ということになるのだろうか。
位山は、標高1,529mで、その山頂からは雄大な北アルプスや御嶽山や乗鞍岳を四方に望むことができるが、頂上付近にある「天の岩戸」と呼ばれる巨石が、水無神社の奥宮である。
また、位山の山頂付近、巨石が点在する場所には、イチイの原生林がある。イチイは、成長が遅く、年輪がつまっているため、硬く歪みが少なく、アイヌ語で「弓になる木」と呼ばれるように弓の材として用いられた。また、古代、神職が儀礼用として手に持つ笏(しゃく)に用いられ、古代、個人に与えられる地位の最高位の「正一位」は、イチイの木からきたものとされる。
現代、今上天皇陛下の即位の際にも、水無神社が樹齢約300年のイチイの原木を伐採して製作し、笏が献上された。
位山の巨石群は、濃飛流紋岩からできている。濃飛流紋岩は、岐阜県の大地を広く覆っているが、8000万年前から約6000万年前までの期間をかけて、膨大な火山噴出物が積み重なって、その噴出物自体の重みと圧力でできた岩体だ。
この大地を作り出した大規模な火砕流は、近年の御嶽山などの火山噴火とは桁違いのスケールだと考えられる。
飛騨の位山は、古文書の『竹内文書』のなかでは、高天原であるかのように記述されるなど様々な伝説があり、古代ピラミッドだと主張する人もいるようだが、それはともかく肝心なことは、この山が、日本列島を南北にわける分水嶺になっていること。ここは、富山平野まで流れる神通川の源流であり、飛騨川が、この分水嶺によって北向きから南向きへと進路を変えていることである。
つまり、飛騨の霊山、位山は、日本海と太平洋、および諏訪地方を結ぶ水上ルートの要ということになる。
山深い場所にあるように感じられる飛騨地域だが、水上ルートで、どこにでも出られるのだ。そして逆に、どこからでも来ることができる。
なぜ、山深いこの場所に来る必要があるのか?
その一つの理由は、石器時代から利用されてきた飛騨の石材だろう。そして、豊かな森林資源を、川によって運ぶこともできる。
豊臣秀吉にも、この地から大坂城築城時の木材を流し、その後、秀吉は、木曽川、飛騨川を直轄領としている。
古代においても木材は、船造りにおいて特に重要であり、海人は、森林資源を求めて川を遡っていった。
さらに忘れてならないことは、飛騨には、かつて東洋一と言われた神岡鉱山があったことだ。
神岡鉱山は、約2億5千万年前にできたとされる飛騨片麻岩といわれる硬い岩石で構成され、その岩石中に亜鉛・鉛・銀が豊富に含まれているが、古代においても、奈良時代の西暦720年頃に、この地より黄金が産出し、朝廷に献じたとの伝承がある。
それ以前は記録として残っていないが、鉱物資源が利用されていた可能性を捨てることはできない。
現代世界においては、戦後、四大公害病とされたイタイイタイ病は、この神岡鉱山のカドミウムが原因となった。
また、閉山となった神岡鉱山の跡地には、小柴昌俊のノーベル賞受賞研究の元となったカミオカンデや、その解体後に作られたスーパーカミオカンデ、重力波望遠鏡、ダークマター検出器など、世界最先端の研究施設が、巨大な地下空間の中に築かれている。
古代に通じる飛騨の地は、現代文明の光と影を示す地でもあるのだが、そうなった理由は、岐阜県瑞浪市のウラン鉱跡が、高レベル放射性廃棄物を処分するための研究施設となるなど、飛騨の大地の構造と無関係ではない。
また、飛騨は、日本で最も自然放射線が強い地域でもある。
飛騨の地下に作られた最先端技術施設は、宇宙の構造を解明しようとしているが、おそらく古代人は、現代人よりも宇宙を身近に感じていた。それは、空を見上げた時の星の数の多さということだけでなく、宇宙じたいが備えているエネルギーを肌で感じていたということだ。
私たちが目にする地形や地勢の多くは、風や水の侵食といった日常と馴染みのある作用の痕跡であるが、飛騨の地の異様なる様相の地形や地勢は、想像を絶する惑星のエネルギーによって生じたものであり、それらを石器や石棒など石材として利用していた古代人は、宇宙に通じる意識回路が、自然に開かれていたかもしれない。
宇宙線や惑星自体が備えているエネルギーは、生命体にも影響を与える。そうしたエネルギーを強く感じる場所が、古代のおける聖域として選ばれていることは、たとえば中央構造線にそって、鹿島神宮、諏訪大社、伊勢神宮などが築かれていることからもわかるが、縄文人は、暮らしの拠点を、そうした場所に置いていた。
北海道や東北などの主な縄文遺跡は、東日本火山帯に沿っているし、群馬や八ヶ岳周辺など縄文王国は、いずれも火山帯だ。
東日本火山帯の西の端が御嶽山であるため、飛騨の中には活火山が存在しないが、飛騨の大地は、太古における猛烈な火山活動によって形成されたものである。
また、室町時代から草津や有馬などと並んで日本三名泉に位置付けられている下呂温泉は、すぐそばに、石器時代から石器として活用された下呂石を産出する湯ケ峰があり、この山は10万~12万年前まで活動していた火山で、その地下には冷え切っていないマグマが残っていて、この火種によって下呂温泉の高温の湯が得られている。
都市生活を主にしている現代人は、100億年を超える宇宙の謎の解明に近づいているなどと自惚れているが、それは数字上のものでしかなく、実際のリアリティとしては、宇宙の原理と隔てられたところで生きている。そして、そのことに無自覚であることが、様々な「苦」の原因となっている。
縄文人は、数千年にわたって、地面を少し掘り下げた竪穴式住居で暮らしていた。
彼らが、大きな家を作る技術を持っていなかったわけではない。
真っ暗な空間の竪穴式住居の入り口の地下には、胞衣(出産後の胎盤)が埋められていたのだが、おそらく、縄文人にとって、竪穴式住居は、母親の子宮と等しいものであり、その中で眠って、朝、目覚めることは、毎日、新しく生まれることを意味していたのだろう。
竪穴式住居は、人工と生命原理を哲学的に深く融合させた施設であり、日々、新しく生まれる感覚で生きていた縄文人に、「苦」はなかったのではないかと思われる。
便利な生活を得たものの、物やしがらみを膨大に抱え込むほどに苦もまた増大させてしまう現代人は、縄文人の幸福度をかなり低く見積もって、自分の生を正当化している。
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