第1216回 危険と背中合わせだった諏訪の御柱祭さえ歪めるコロナパニック。

 ショックな出来事。

 4月上旬に行われる予定の諏訪の御柱祭

 申年と寅年に行われる奇祭、1200年も続いてきた伝統の祭りが、コロナ禍の影響によって、山出しの曳行(えいこう)や木落としが行われないのだという。

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2022022200681

 長い歴史を誇る御柱祭で初めてのことらしい。この1200年のあいだい様々な厄災があったはずなのに、今回のコロナ禍の心理的、社会的影響は、それ以上ということか。

 新型コロナウイルス感染防止の安全、安心が保証できないことなどが理由とされているが、山の斜面を大木に乗って滑り落ちる危険な木落しでは、これまで何人も死者が出ているが、死者を出した親族もそれを受け入れ、その死を公にしないこともあったようだ。

 危険と隣り合わせなことは承知のうえ、これまで続いてきた祭りが、安全、安心が保証できないという理由で、その内容を変更させられるという時代社会に、私たちは生きている。

 「人の生命は何よりも大事」という、善良そうでいて、実は、人間のことしか考えていないという偏狭な価値観を軸にして。

 12年前の寅年の時、本当は氏子の人しか参加できない山出しの曳行(えいこう)を経験させていただいた。祭りのハイライトは劇的な木落しだが、その前に、御柱になる大木を、長い道のりをかけて氏子さんたちが引いていく。そして斜面の頂上まで行ったところで、御柱を引いてきた人たちは斜面の下に陣取る。斜面を滑り落ちてくる御柱を、一等席で見る資格が与えられるのだ。

 その場所は狭いために、物見遊山の見物客は入れず、遠く離れたところから、祭りの雰囲気を味合うしかない。

 こうして山から切り出されて、氏子に引かれて、斜面を滑り落ちた16本の御柱は、諏訪の上社と下社に建てられる。

 今年は、その御柱は、トレーラーで運搬されるのだという。

 これからの8年間は、諏訪大社を訪れても、トレーラーで運ばれた木を見ることになる。

 プロセスは関係なく、形だけがそこにあるということになるのだが、食物なども、どのように作られているのか全く知らないという私たちの日常と同じだ。数字とか肩書きとか経歴とか、目にみる部分でしか評価判断しないことも同じ。

 そうしたプロセスを知らなくても、違いがわかるという感性が保たれていればいいのだけれど、そもそも、祭祀というのは、目に見えていない領域にアクセスする力を保つためのものだった。

 以前、高千穂の夜神楽に行った時、テレビ映りを意識してか衣装が新調されていたことにがっかりしたことがあった。

 伝統もまた形式主義になっており、このたびのコロナウィルスの禍というのは、実際の病の怖さよりも、そうした形式主義による害の方が大きいように感じられる。形を整えているかどうかが評価基準になるという矮小な時代に私たちは生きているが、諏訪の御柱祭というのは、そんな形式主義を吹き飛ばすような、生命の本質に基づいた大きな風だったのだけれど、そうした風さえ立つことのない世界って、精神が沈滞して淀むばかり。

 

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