第1149回 村上春樹氏の SNSに対する言葉について

 村上春樹氏が、 SNSについて言及した言葉が、話題になっているようだ。

「大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない」 これについて、茂木健一郎さんが、「ぼくはSNSを文章の質で評価する発想はなくて、もちろんマジメな意義もあるけど、本質的に『気晴らし』や『雑談』の場だと考えている。村上さんはネットの雑多な感じがお苦手なんだろうなあと思う」と述べている。

 茂木さんは、村上氏が、雑多な感じが苦手なんじゃないかと見解を述べているけれど、村上氏は、「人生にとって・・」という答え方をしているので、もっと明確な意思を持っていると思う。

 たとえば、暴力ばかりの映画とか見ない方がいいというレベルで、SNSは心の形成に悪い影響があるという意識を村上氏は持っていて、その思いを間接的に表現しているんじゃないだろうか。

 世界のことを知るために色々と雑多なことに触れた方がいいという判断は、わりと大勢に共感支持されていることだが、世界のことを知るというのは、表層的な現象の移ろいを知るということではなく、その本質を知るということだけれど、洪水のように押し寄せる雑多なことに埋もれているうちに、本質を知る直観のようなものが薄れてしまうことがある。官僚の不祥事などもそうだが、頭もよくて、マトモに見える人が、なんでそんなことを、と思うようなことを平気でやってしまうのも、物事の本質にアクセスする感性を麻痺してしまっているからだろう。

 今ではどうだか知らないが、昔の骨董屋さんは、後継が子供の頃から、いい物、本物しか見せなかったそうな。本物と偽物を色々見て、その違いを理解し、それを覚えることが物を見極める目を育てることにつながるんじゃないかと、おそらく現代人の多くは思っているけれど、実はそうではない。

 そういう理屈分別によって身につけた判断基準は、いざという時に役に立たない。

 本物だけを見て育った目は、偽物が目の前に持ち込まれた瞬間、その物が漂わせている気配を感じ取るだけで、それが偽物だと瞬時に察知できるそうな。目が肥えているというのは、そういうこと。本物のオーラの記憶が自分の中に蓄積されていることで初めてできること。

 これは骨董に限らない。魚のセリの第一線に立つプロも、当然そうだろう。彼らは、うまい魚しか食べていない。

 言葉は人生においてとくに重要な道具だから、人の発する言葉を見極める力は重要だ。村上氏が、上等な文章、とかマズイ文章とか言っているのは、文章が下手か上手かということではなく、内容が本質的か、そこからかけ離れているかということを言っているのだろうと思う。

 本質にそった言葉の経験をせずに、表層的な情報のキャッチボールばかりしていると、たしかに、その取り扱いにも配慮ができず、言葉の取り扱いに配慮できない言葉の使い手によって、SNSは、たちまち暴力的な装置に変身する。

 それにしてもなぜ、SNSの言葉が、まずい文章になりがちなのか?

 それは、「言葉」というものの性質として、言うに言えない微妙な領域を言葉にしようと足掻くプロセスを経て磨かれていくものなのに、SNSにおける言葉は、その葛藤を経ずに放たれるものばかりになってしまうからだろう。その結果、言葉の背後を読みとることで理解するという、人とのコミュニケーションにおいて重要な力が、失われていく。

 そして、一人ひとりは、自分の中の言うに言えないものを抱え込んだまま、その解消のために、わかりやすい共感に逃げ込むが、言うに言えないものがなくなるわけではなく、にもかかわらず言葉は溢れかえっているため、自分は、世界から置いて行かれているような気になり、孤独と不安は深まる。

 たった一つのいい言葉、いい音楽によって慰められたり救われたりするのは、たった一つでも自分の中の言うに言えないものが昇華されるものに出会うことで、自分の中の孤独が、世界の中で完全に孤立したものではないことを実感できるからだろう。それが耐える力にもなる。

 本当の共感は、そういうものであり、その共感は、安易に、いいね!とはできない。

 村上氏は、人生にとって大事なことは、いい文章といい音楽に触れることと、あえて音楽をいうことを持ち出しているけれど、この場での本題は、言葉であって、音楽について触れているのは、言葉だけに限定すると知識分別の領域に狭められてしまうので、音楽をくわえることで、SNSによって悪い影響を受ける可能性のある感性のことを指し示しているのだろう。

 村上春樹がどこまでの思いを持って、SNSに対して言及したのか正確にはわからないけれど、趣味嗜好の問題ではなく、人生にとって大事なことは何なのか?という問いがベースにあることは間違いないと思う。

 

 

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